設計思想とは|ソフトウェア開発で押さえるべき原則と組織導入ガイド
設計思想とは何か — ITにおける定義と重要性
設計思想(せっけいしそう、design philosophy)は、システムやソフトウェアを構築するときに開発チームや組織が優先する価値観・原則・判断基準の集合です。単なる技術的な選択肢(言語やフレームワーク)を超えて、「どのように設計するか」「何を重視するか」「何を犠牲にするか」を明確にすることで、長期的な一貫性、保守性、品質、ビジネスとの整合性を確保します。
設計思想の歴史的背景と代表的な思想
-
UNIX哲学 — 「小さく簡潔に、ひとつのことをうまくやる」など。複雑性をコマンドやモジュールの組み合わせで解く考え方はソフトウェア設計にも深い影響を与えています(参考: Eric S. Raymond 等)。
-
KISS(Keep It Simple, Stupid) — 設計は可能な限り単純に。複雑化を避けることでバグやコストを下げるという思想(起源は航空設計者 Kelly Johnson 等)。
-
DRY(Don't Repeat Yourself) — 重複を避け単一の真実の源を持つこと(The Pragmatic Programmer)。
-
YAGNI(You Aren't Gonna Need It) — 未来の機能を先に作らない。必要になったときに作ることを優先するXP由来の考え方。
-
SOLID 等のオブジェクト指向原則 — 単一責任、オープン・クローズド、リスコフの置換原則など。設計の可変性や拡張性を支える原則群(Robert C. Martin 等)。
-
ドメイン駆動設計(DDD) — ビジネスのドメインモデルを中心にソフトウェアを設計し、専門家との共通言語を重視する(Eric Evans)。
具体的な設計原則・注意点(IT向け)
-
可読性・保守性 — 将来の開発者が理解しやすいこと。命名、モジュール分割、コメント、API設計、テストが対象。
-
単一責任と分離の原則 — モジュールやマイクロサービスは明確な責任を持ち、関心事を分離すると変更コストが下がる。
-
スケーラビリティと性能 — 水平分割、キャッシュ、非同期処理などを設計段階で検討する。だが過剰最適化は複雑さを招くため設計思想でバランスを決める。
-
障害耐性(Resilience)と可観測性(Observability) — フェイルファスト、回復戦略、ロギング、メトリクス、トレーシングの設計。近年は「設計は観測可能であるべき」という観点が重視される。
-
セキュリティ・プライバシー・アクセシビリティ — 「セキュリティは後付けにしない(Security by Design)」「プライバシー・バイ・デザイン(Privacy by Design)」を採用するとコンプライアンスや信頼性の問題を未然に防げる。アクセシビリティ(WCAG)も初期設計に組み込むべき。
-
操作性とユーザー中心設計 — UI/UXを設計思想に組み込むことで利用者満足度が上がり、結果的に運用コスト低下に繋がる。
-
トレードオフの明確化 — 一貫した設計思想は、性能・コスト・開発速度・安全性などの間でどのように妥協するかを示す指針になる。
アーキテクチャレベルの思想例
-
モノリス vs マイクロサービス — 開発速度や運用の効率、デプロイ戦略、チーム構造(Conwayの法則)に合わせて選ぶ。どちらが正解というより、組織の成熟度や運用体制で決まる。
-
イベント駆動・ストリーム処理 — リアルタイム性や疎結合を重視するケースに有効。ただしデバッグや整合性管理のコストが上がる。
-
分散システムの原則(CAP等) — 一貫性・可用性・分断耐性のトレードオフを理解しておく。設計思想はどの点を優先するかを明確にする必要がある(Brewer / Gilbert & Lynch)。
設計思想を実践するためのプロセスとツール
-
要件と制約の明文化 — 非機能要件(性能・可用性・セキュリティなど)を初期段階に書き出す。設計判断が迷ったときの基準になる。
-
アーキテクチャ決定記録(ADR)や設計ガイドライン — 重要な設計判断を記録し、理由と代替案を残すことで知識継承とレビューが容易になる(Martin Fowler 等が紹介)。
-
プロトタイプと反復 — 不確実性が高い部分は小さく作って検証する。YAGNIと組み合わせて不要な先行投資を避ける。
-
コードレビュー・設計レビュー・アーキテクチャガバナンス — 設計思想の一貫性を保つための仕組み。自動テストやCI/CDも設計思想を実現する手段となる。
よくある誤解とアンチパターン
-
「思想はあるけど実践されない」 — 文書化だけで終わると形骸化する。ガイドラインをCIやテンプレートに落とし込み、評価指標を設定することが必要。
-
「万能な思想はない」 — ある思想を盲信すると他の重要な要件を見落とす。状況に応じて柔軟に適用する判断力が求められる。
-
過度の最適化や premature optimization — 早期の複雑化は技術的負債につながる。KISS・YAGNIのバランスが重要。
組織における導入のステップ
-
1) 現状の価値観や課題を洗い出す(ユーザー、運用者、開発者の観点)
-
2) 優先する設計原則を明文化し、具体例を示す(サンプルコード、アーキテクチャ図)
-
3) 小さなプロジェクトで試験導入しフィードバックを得る
-
4) 指標(MTTR、リリース頻度、バグ件数等)で効果を評価し継続的に更新する
まとめ — 設計思想は技術ではなく合意の技術である
設計思想は単なる流行り言葉ではなく、チームや組織が長期的に高品質のソフトウェアを提供するための「合意事項」です。技術的な原則やパターン、プロセス、そしてビジネス目標を橋渡しする役割を持ちます。重要なのは、思想を文書化するだけでなく、運用・CI・レビュー・評価指標など具体的な仕組みに落とし込み、状況に応じて柔軟に見直すことです。
参考文献
- Eric S. Raymond, The Art of UNIX Programming
- KISS principle — Wikipedia
- Andrew Hunt & David Thomas, The Pragmatic Programmer (DRY 等)
- Martin Fowler, Documenting Architecture Decisions
- Model–view–controller (MVC) — Wikipedia (Trygve Reenskaug)
- Eric Evans, Domain-Driven Design
- SOLID (object-oriented design principles) — Wikipedia
- W3C, Web Content Accessibility Guidelines (WCAG)
- OWASP — セキュリティガイドライン
- CAP theorem — Wikipedia (Brewer / Gilbert & Lynch)
- Netflix Tech Blog — Chaos Monkey / Chaos Engineering
- AWS Well-Architected Framework


