「原音」とは何か — 音楽の“本当の音”を科学と歴史から読み解く
はじめに — 原音(原音再生)の概念
「原音(げんおん)」という言葉は、リスナーや録音技術者の間でしばしば使われますが、その意味は文脈によって異なります。広義には「演奏や声そのものが持つ自然な音の性質」を指し、狭義には「録音・再生の工程で元の音波形にできるだけ忠実な再現」を指します。本稿では物理的・技術的な側面、歴史的経緯、聴覚心理学的観点、現代の議論(ハイレゾ、MQA、ラウドネス戦争など)を整理し、実務者とリスナー双方にとっての“原音”の意味と現実的な到達可能性を検討します。
原音の物理的定義:波形・スペクトル・位相・ダイナミクス
音は空気の圧力変化、すなわち時間的な波形として表現されます。原音の忠実な再現を考えるとき、重要になる要素は主に次の通りです。
- 周波数スペクトル:基音と倍音(倍音構成が音色=ティンバーを決定)。
- 位相関係:複数の周波数成分間の時間的なずれ。位相は音色や空間情報に影響を与える。
- ダイナミックレンジ:最小から最大までの音圧差。録音・再生での圧縮/ノーマライズはここを変化させる。
- 時間領域特性:アタック、減衰、残響などのエンベロープ。
これらを総合して「原音」と呼べるかどうかが決まります。どれか一つが失われても印象は変わります。
歴史的背景:原音追求の変遷
録音技術は19世紀末のアコースティック録音から始まり、20世紀には電気的マイクロフォンの導入、磁気テープ、ステレオ化、デジタル化へと発展しました。各時代の技術革新は「より原音に近い再現」を目指す一方で、商業的・芸術的判断(例えばエコーの追加、周波数補正、ダイナミクス処理)が“原音”の概念を揺らがせてきました。
アナログとデジタル:どちらが原音に近いか
アナログ(例:アナログテープ、アナログカートリッジ)は連続波形を扱うため「理論上は」原音を連続的に記録できます。一方でノイズや歪み、劣化が付随します。デジタルはサンプリングと量子化によって波形を離散化しますが、適切なサンプリング周波数とビット深度を用いれば人間の聴覚が知覚できる範囲で極めて高精度に再現できます。
例:CDは44.1kHz/16bit。ナイキストの定理により、44.1kHzは理論上20kHzまでの再現が可能であり、16bitは理論上約96dBのダイナミックレンジを持ちます(6.02dB×ビット数 + 1.76dBの式で概算)。つまり多くの音楽再生で十分とされる一方、ハイレゾ(96kHz/24bit等)はマイクロダイナミクスや処理余裕の点でメリットを主張します。
ヒトの聴覚と心理音響
人間の可聴域は一般に20Hz〜20kHzだが年齢や個人差が大きい。スペクトルや位相の細かな差を聴き取れるかはリスナーの訓練、リスニングレベル、信号対雑音比、再生環境に依存します。音の重要な側面は物理的な差異があるかどうかではなく、心理的に差として認識されるかどうかです(心理音響学)。多くの研究は、一定条件下ではハイレゾフォーマットの差は聴感上判別しにくいと示唆していますが、ミキシングやマスタリング工程での処理余地として24bit以上が有利であるとする見解も多いです。
録音・再生チェーンが原音に与える影響
原音の再現性はソース(演奏者)、マイク、プリアンプ、A/D変換、ミキシング、マスタリング、再生機器(D/A、アンプ、スピーカー/ヘッドフォン)、ルーム特性など、チェーン全体で決定されます。たとえばマイクの指向性や配置は位相と倍音構成を変え、ルームの残響は音の時間領域特性を大きく改変します。
- ルーム補正と音場:スピーカー再生では部屋の定在波や反射が音像を形成する。
- 位相と遅延:複数のスピーカーやマイクがある場合、位相整合が重要。
- 電気的ノイズと歪み:機材の性能限界が低レベル信号を覆い隠す。
原音論の現代的争点
現代ではいくつかの技術・商業論争が“原音”論議を引き起こしています。
- ハイレゾ(高サンプリング/高ビット深度):ヒトが知覚できるか、制作段階での利点はあるか。
- MQA:可逆的・不可逆的圧縮を組み合わせたフォーマットであり、可聴上のメリットを巡り賛否がある(処理内容の不透明性も問題視)。
- ラウドネス戦争:過度な圧縮・リミッティングがダイナミックレンジを破壊し、原音から離れる。
- リマスター/リミックス:オリジナルマスターの意図と現代的な音像のどちらを尊重するか。
実務者(録音/マスタリング技師)への示唆
原音に忠実であるための実践的ポイント:
- ソースを大切にする:楽器配置、ルーム、演奏のバランスは最も重要。
- マイク選択と配置:位相干渉を避け、倍音を自然に捉える。
- 高ビット深度での録音とヘッドルーム確保:24bitや32bit浮動小数点での記録は不要なクリッピングを避ける。
- 必要最小限の加工:EQ/コンプは音楽的な目的で段階的に。
- メタデータとドキュメント化:どのマスターが『原音』に近いかを示すための履歴を残す。
リスナー向けガイド:自宅でできる「原音に近い」再生
リスナーが原音に近い体験を得るための実用的なポイント:
- 良好なソースを選ぶ:スタジオマスターやロスレス配信(FLAC、ALAC等)が有利。
- 再生環境の改善:部屋の音響処理、スピーカー配置、リスニング位置。
- 機器のチェーンを見直す:優れたD/A、低歪みアンプ、特性の良いヘッドホン/スピーカー。
- 音量とラウドネス:過度な音量や過圧縮された配信は原音を損なう。
- 測定と耳の併用:周波数特性や位相を測定器でチェックし、最後は試聴で判断する。
保存・アーカイブと原音
文化遺産としての音楽アーカイブは「原音に近い」記録を保存するという課題を持ちます。劣化しやすい媒体(テープ、アナログ盤)の保全、デジタル化の際の適切なサンプリング/量子化、メタデータ保存は極めて重要です。アーカイブ作業ではオリジナルマスターの状態を記録し、複数のフォーマットで保存することが推奨されます。
測定可能性と評価方法
原音にどれだけ近いかは測定と主観評価の両面で判断します。測定では周波数特性、THD+N(全高調波歪み+雑音)、SNR、インパルス応答、位相特性などが用いられます。主観評価ではブラインドテストやABXテストが公平な比較手段となります。
結論 — 原音は到達点ではなくプロセス
「原音」を一義的に定義するのは難しく、物理的再現性と芸術的意図、心理的知覚の三者が絡み合います。技術は進歩し、多くの局面で物理的な忠実度は向上しましたが、最終的な判断は録音の意図、制作上の選択、再生環境、リスナーの経験に依存します。したがって原音への追求は単なる数値の最適化ではなく、ソースの尊重と文脈の理解を伴うプロセスです。
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参考文献
- Sampling (signal processing) — Wikipedia
- Bit depth — Wikipedia
- Audio Engineering Society (AES)
- ITU-R BS.1770 — Loudness measurement
- 日本オーディオ協会 — ハイレゾ音源について
- Nyquist–Shannon sampling theorem — Wikipedia
- MQA — Wikipedia (議論の概説)
- Harman International — Research on loudspeaker and headphone target responses
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