是枝裕和──家族と記憶を紡ぐ映画作家の軌跡と作風分析
序章:是枝裕和という名の意味
是枝裕和は、現代日本映画を代表する監督の一人として国内外で高い評価を得ている。家族や子ども、日常の細部に寄り添いながら、人間の相互関係や記憶、倫理的ジレンマを静かに浮かび上がらせる作風で知られる。本稿では是枝の経歴と代表作、作風の特徴、製作手法、評価の変遷と国際的な受容を整理し、彼の映画がなぜ多くの観客の心をつかむのかを深掘りする。
経歴の概観:ドキュメンタリー出身の映画作家
是枝裕和は、テレビドキュメンタリー制作を経て長編映画の世界へと進出した。ドキュメンタリーで培った現場観察力と、人間の振る舞いをありのままに映し出す目線が、後の長編作でも一貫して活かされている。1990年代半ばに長編劇映画『幻の光(Maboroshi)』(1995)で監督デビューを果たして以来、ペースを保ちながら着実に作品を重ねてきた。
主要作品とその位置づけ
- 幻の光(1995):長編劇映画デビュー作。抑制された語り口で人間の喪失と再生を描く。
- ワンダフルライフ(After Life, 1998):死と記憶を扱った寓話的作品で国際的にも評価された。
- 誰も知らない(Nobody Knows, 2004):実際の事件に着想を得た作品。主演の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭で最年少の主演男優賞を受賞し、是枝の国際的評価が確立された。
- 歩いても 歩いても(Still Walking, 2008):家族の日常を丁寧に描いた評判の高い作品で、成熟した作風を示した。
- そして父になる(Like Father, Like Son, 2013):血縁と育ての関係をめぐる倫理的ジレンマを扱い、カンヌでの受賞などで注目を集めた。
- 三度目の殺人(The Third Murder, 2017):法廷と事実認定をテーマに、従来の是枝作品とは異なる緊張感のある語り口を見せた。
- 万引き家族(Shoplifters, 2018):家族のかたちと貧困、連帯を描き、第71回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞。アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた。
- La Vérité(The Truth, 2019):フランスの名優キャスティング(カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノシュ)で撮られた初の海外プロダクション系作品。国際作家としての幅を示した。
反復される主題:家族、子ども、記憶
是枝作品を通貫する主題は「家族」と「記憶」だ。生物学的血縁だけでなく、共同体としての家族の成立と崩壊、子どもの視点を通した世界の捉え直しが繰り返し描かれる。『誰も知らない』では親の不在と子どもの自立が生々しく描かれ、『万引き家族』では法的家族と生活共同体の違いが問い直される。さらに『ワンダフルライフ』のように、死後の記憶を扱う作品では、個人の記憶がアイデンティティの根幹であることが示される。
映画作法:観察的リアリズムと静かな倫理的問い
是枝の作風は、過度に説明的な演出や音楽で観客の感情を煽る手法を避け、現場の空気感をそのまま写し取る観察的リアリズムに特徴がある。長回しや静的なフレーミング、生活音を重視するサウンドデザイン、役者の自然な呼吸や間を尊重する演出によって、画面に「生活」が宿る。観客は物語の中で能動的に意味を組み立てることを促されるため、倫理的・感情的な判断は観客自身に委ねられることが多い。
俳優との関係とキャスティング
是枝はプロの俳優と非プロの若年出演者を組み合わせることがあり、子どもの自然な振る舞いを引き出すことに長けている。例えば『誰も知らない』での柳楽優弥の演技は劇中人物に深い真実味を与え、世界的な評価につながった。近年は松山ケンイチやリリー・フランキー、安藤サクラなどの俳優と繰り返し仕事をすることもあり、信頼関係を基盤に深い人物描写を実現している。
制作現場の特徴:ドキュメンタリー的視座と綿密な準備
ドキュメンタリー出身である是枝は、事前の取材やリサーチを重視し、現場での「気づき」を活かす柔軟な撮影手法を採る。脚本や絵コンテに厳密に固執するのではなく、現場で俳優や環境に応じて微調整することが多い。これにより、画面は生々しい日常感を帯び、観客はフィクションでありながら「本当にあったこと」を見ているような感覚を得る。
評価と批評:国内外での受容
是枝の作品は国内の映画賞だけでなく国際映画祭でも高い評価を受けてきた。特に『誰も知らない』でのカンヌ出品と柳楽優弥の受賞は国際的注目を促し、『万引き家族』のパルム・ドール受賞は是枝を世界的な旗手として確立した。ただし、社会派的なテーマを扱う一方で、演出の抑制や道徳的曖昧さを批判する論調もあり、賛否両論のはざまに立つ作家でもある。
変化と拡張:ジャンルと舞台の幅を広げる試み
これまで主に日本の生活世界を舞台にしてきた是枝は、近年フランスで撮影した『La Vérité(The Truth)』など国際共同製作に踏み出し、作家としての表現領域を拡張している。また法廷ものの要素を取り入れた『三度目の殺人』のように、従来とは異なる語り口や構成に挑戦することで、作風の幅も広がっている。
是枝映画が観客に残すもの
是枝裕和の映画は、答えを提示するのではなく問いを立て続ける。登場人物の選択や物語の曖昧さを通じて、観客に倫理的な想像力を働かせる場を提供する。終盤で強い感情のカタルシスを与える類ではないが、観賞後にじわじわと心に残る余韻、日常への視点の変化、他者への想像力が芽生える──そうした効果が是枝映画の大きな特徴である。
結語:これからの是枝裕和
映画祭での受賞や国際的な共同製作を経て、是枝裕和はますます国境を越えた作家性を発揮している。今後も家族や記憶といった普遍的な主題を軸に、新たな表現手法や異文化との接点を通じて観客に問いを投げかけ続けるだろう。是枝の次作がどのような視点と手法をもたらすのか、国内外の映画ファンは注目している。
参考文献
- Hirokazu Kore-eda - Wikipedia
- Shoplifters - Festival de Cannes
- 91st Academy Awards (2019) - Oscars.org
- Guardian interview: Hirokazu Kore-eda on Shoplifters
- Hirokazu Kore-eda - IMDb


