不可逆関数(One-way function)とは何か――理論と実務の深掘りガイド

導入:不可逆関数の概念と重要性

不可逆関数(one-way function)は、入力から出力への計算は効率的に行えるが、出力から元の入力を復元することが計算上困難である関数を指します。情報セキュリティや暗号技術の基礎概念の一つであり、パスワード保存、ハッシュ化、電子署名、公開鍵暗号の設計など多くの実用システムで核心的な役割を果たします。本稿では数学的背景から暗号学的な応用、実装上の注意点、量子計算の影響までを幅広く、かつ技術的に掘り下げて解説します。

数学的定義と理論的背景

非形式的には「f(x) を計算するのは容易だが、f(x) から x を得る(逆像を求める)のは難しい」関数を不可逆関数という。理論計算機科学では、効率的=多項式時間で計算できることを意味し、難しいとは任意の効率的アルゴリズムでも元の入力を見つけることがほぼ不可能(期待多項式時間では不可能)という意味合いで用いられます。

重要な理論的事実として、もし真に計算困難な不可逆関数が存在すれば、P ≠ NP が成り立つことが示されます。しかし逆に P ≠ NP から不可逆関数が必ず存在するかは未解決です(つまり存在の証明は未だない)。このため、暗号分野では特定の計算問題(素因数分解、離散対数、格子問題など)が困難であるという仮定に基づく構成が実務的に採用されています。

暗号学における不可逆関数の種類

  • 一般的な一方向ハッシュ関数:任意長の入力を固定長のダイジェストに写像する関数。目的は一方向性(preimage resistance)、第二原像抵抗(second-preimage resistance)、衝突抵抗(collision resistance)など。
  • 一方向関数(one-way functions):逆像を見つけることが困難な関数の一般概念。ハッシュはその代表例とみなせます。
  • トラップドア一方向関数(trapdoor one-way functions):通常は逆が困難だが、特別な秘密情報(トラップドア)を知っていると容易に逆変換できるもの。RSA や一部の公開鍵暗号はこの考え方に基づく。
  • 一方向置換(one-way permutations):定義域と値域が同じで、かつ可逆性(置換)を持つが逆が困難な関数。理論的研究の対象。

ハッシュ関数の特性:用語の整理

ハッシュ関数に期待されるセキュリティ性は複数あります。混同しやすいので整理します。

  • Preimage resistance(原像抵抗):与えられたハッシュ値 y に対して x で f(x)=y を見つけることが困難。
  • Second-preimage resistance(第二原像抵抗):ある固定のメッセージ x を与えられたとき、異なる x' ≠ x で f(x') = f(x) を見つけることが困難。
  • Collision resistance(衝突抵抗):任意の二つの異なる入力の組 (x, x') で f(x)=f(x') となる衝突を見つけることが困難。これは第二原像抵抗より強い性質とされる。

実装上は衝突耐性の弱体化が致命的になる場面(証明書の偽造や署名の改竄など)が多いため、衝突抵抗が特に重視されます。ただし用途によりどの性質が重要かは変わります(パスワード検証なら preimage が重要)。

代表的な不可逆関数とその安全性の根拠

  • MD5, SHA-1, SHA-2, SHA-3 系列:MD5 や SHA-1 は衝突攻撃に対して脆弱化しており実用では推奨されない。SHA-2 (SHA-256 など)は現在も広く使われ、安全性は高いとされるが設計上の保守的運用が必要。SHA-3 は異なる設計(Keccak)に基づく。
  • RSA のトラップドア関数:f(x)=x^e mod N は公開指数 e と合成数 N=pq を用いる。N の素因数分解が困難であれば逆変換(x を求める)は困難。Shor の量子アルゴリズムにより量子計算機では破られる。
  • 格子基盤の関数:最近の公開鍵暗号で注目される。格子問題(短ベクトル問題など)の困難性に基づき、量子耐性が期待される。

不可逆性が破られるとどうなるか:攻撃シナリオ

不可逆性の崩壊は直接的に認証や署名、データ整合性に影響します。

  • パスワードハッシュが簡単に逆算できればユーザー全体のログイン情報が流出する。
  • ハッシュ衝突が実現すると、署名付きドキュメントの偽造やソフトウェア配布の改竄が可能になる。
  • 公開鍵の基盤問題(例えば素因数分解)が解かれると、秘密鍵が復元され機密通信が破られる。

実装上のベストプラクティス

不可逆関数(特にハッシュ)を用いる際の具体的な注意点と対策を列挙します。

  • パスワード保存には単純ハッシュを使わない:単一のハッシュ(例:SHA-256(password))は辞書攻撃や総当たりに弱い。必ずソルト(salt)を使い、計算コストを上げるストレッチング(KDF)を適用すること。
  • 推奨 KDF:PBKDF2(RFC 8018)、bcrypt、scrypt、Argon2(Password Hashing Competition の勝者)。Argon2 はメモリと時間のコストを調整可能で、短期的な推奨候補。
  • 適切なパラメータ設定:反復回数やメモリ制約は将来のハードウェア性能に合わせて定期的に見直す。NIST や各コミュニティのガイダンスに従う。
  • ハッシュの用途に合わせた選択:デジタル署名や証明書では衝突抵抗が重要。パスワード保存では preimage/弾性が中心。
  • プロトコル全体設計を見る:不可逆関数単体の安全性が高くても、プロトコル上のリプレイ、サイドチャネル、実装ミスで攻撃されることがある。

現実の攻撃手法と防御

攻撃は理論的アルゴリズム(例:数論アルゴリズム、格子攻撃)と実践的手法(辞書攻撃、レインボーテーブル、GPU/ASIC を用いた総当たり)がある。防御には以下が有効です。

  • ソルトと適切な KDF によるレインボーテーブル対策と総当たり難化。
  • ハードウェアアクセラレーションに対する耐性を考慮したコストチューニング(メモリ消費の増加など)。
  • 定期的なアルゴリズム更新と脆弱性情報の監視。

量子計算の影響と将来展望

量子アルゴリズムは不可逆性に対して二種類の影響を持ちます。Shor のアルゴリズムは素因数分解や離散対数問題を多項式時間で解くため、RSA や ECC といったトラップドア関数は量子計算機によって破られる恐れがあります。一方、Grover のアルゴリズムは任意のブラックボックスな探索に対して二次速度改善(N -> sqrt(N))をもたらすため、対称鍵やハッシュの耐性は鍵長や出力長を倍にするなどの対策で補えるとされています。

結果として、量子耐性を考慮した暗号(ポスト量子暗号、NIST の標準化プロセス参照)への移行が進められています。格子基盤暗号やコード基盤暗号などが候補です。

まとめ:何を選び、どう運用するか

不可逆関数は暗号システムの基礎であり、その選定と実装が安全性を左右します。実務的には以下を勧めます。

  • 用途に応じて性質(preimage/second-preimage/collision)を明確にし、それに適した関数を選ぶ。
  • パスワード保存には Argon2 等のメモリ耐性 KDF を使い、ソルトと適切なパラメータを設定する。
  • 公開鍵基盤は量子耐性のロードマップを見据えて更新計画を立てる。
  • 暗号ライブラリやプロトコルの最新ガイドライン(NIST 等)に従い、定期的なレビューを行う。

参考文献