タイムストレッチ完全ガイド:原理・主要アルゴリズム・音質改善テクニック
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タイムストレッチとは何か
タイムストレッチ(time-stretching)は、音声・音楽の再生速度(長さ)を変えながら音高(ピッチ)を維持する技術を指します。逆に音高を変えずにテンポを変えることで、演奏の速度だけを調整したい場面で多用されます。過去にはテープの再生速度を変える物理的手法が使われましたが、デジタル信号処理の発展により高品質で柔軟な処理が可能になりました。
歴史と背景(簡潔に)
1960年代から1970年代にかけて初期の位相操作や短時間フーリエ変換(STFT)に基づく手法が研究され、その後、オーバーラップ・アド(OLA)、PSOLA、WSOLA、位相ボコーダ(Phase Vocoder)など多様なアルゴリズムが登場しました。近年はハイブリッド手法や商用アルゴリズム(zplane élastique、Serato Pitch ’n Time、DAW内蔵の高品質モードなど)が現場で広く使われています。
基本原理と主要アルゴリズム
タイムストレッチのアプローチは大きく分けて「波形領域(時間領域)」と「周波数領域(変換領域)」に分かれます。それぞれ特性と得意・不得意があり、素材(パーカッション、ボーカル、楽器)に応じて使い分けます。
- Overlap-Add(OLA)/Crossfade 型:短いフレームを切り出し、再配置してオーバーラップさせる基本手法。単純で高速だが、位相の扱いが未整備だと音が不自然になる。
- PSOLA(Pitch Synchronous Overlap-Add):ピッチ周期に同期して切り出すことで、声のような周期信号を自然に伸縮可能。話者・音声処理で広く使われる。
- WSOLA(Waveform Similarity OLA):切り出す位置を波形類似度に基づき最適化し、アーティファクトを減らす。音楽の穏やかな伸縮に向く。
- 位相ボコーダ(Phase Vocoder):短時間フーリエ変換(STFT)で周波数成分を扱い、位相を補正しながら時間軸を拡張する。移調なしで大きな伸縮が可能だが、過度な伸縮で“フェージー(phasiness)”やトランジェントのぼやけが生じやすい。
- グラニュラー(Granular)手法:非常に短い断片(グレイン)をランダムもしくは制御された順序で並べ替え・重ね合わせる。極端な伸縮やテクスチャ変化に強いが、楽曲の自然さを保つにはパラメータ調整が重要。
アルゴリズムの改良と実用的な工夫
位相ボコーダの改良(Laroche & Dolson 1999 など)や、トランジェント検出とハイブリッド処理(トランジェントは波形領域で、持続部は周波数領域で処理)によって、従来の欠点は大きく軽減されました。商用アルゴリズム(例:zplane élastique)は複数の手法を組み合わせ、音楽信号の異なる要素に応じて処理を切り替えることで高品位化を実現しています。
よく起きるアーティファクトと原因・対処法
- トランジェントのボケ(smearing):位相ボコーダや長いウィンドウを使うと発生。対処法はトランジェント検出→トランジェント部を時間領域(WSOLA/PSOLA)で処理すること。
- フェージー(位相の不自然さ):周波数成分の位相整合が不十分だと起こる。位相補正アルゴリズムやホワイトニング的な調整で改善可能。
- フォルマントの変化(声質が変わる):ピッチは維持してもフォルマントが移動すると声が不自然に。フォルマント補正機能(formant preservation)を備えた処理を選ぶ。
- 反復ノイズやクリック:ウィンドウ切断の不連続で発生。適切な窓関数とオーバーラップ率、クロスフェードで防ぐ。
実務での使い分け(素材別の推奨)
- パーカッション/ドラム:短いアタックを守るため、WSOLAやトランジェント保持機能があるモードを使用。極端な伸縮はサウンドを壊しやすい。
- ボーカル:微小〜中程度の伸縮は位相ボコーダ(フォルマント補正オン)で自然。大きな伸縮はPSOLAや専用のボーカル処理(Melodyne 等)が有利。
- シンセ/パッド:テクスチャ系は位相ボコーダやグラニュラーで伸縮しやすい。漂うサウンドは大胆な伸縮でも違和感が少ない。
DAWでの実践テクニック
多くのDAWは複数のタイムストレッチモードを搭載しています(例:Ableton Live の Warp モード、Cubase のタイムストレッチエンジン)。選択の指針:
- 少しのテンポ調整(±5% 程度):低負荷で高品質なモードで十分。
- 中程度(5〜20%):素材に合わせて「トランジェント重視」か「ピッチ/フォルマント重視」を選ぶ。
- 大きな変更(20%以上、または数倍の伸縮):グラニュラーや専用プラグインの使用を検討。複数回に分けて行うより一度で処理した方がアーティファクトは少ないことが多い。
ワークフローのコツ
- 元ファイルを必ずバックアップする。タイムストレッチは不可逆な劣化を招く場合がある。
- 必要ならばオーバーサンプリングを使う(内部処理で高いサンプルレートにしてから戻す)と高周波の劣化が減る。
- 複雑なミックスでは、個別トラックで処理してからバスでまとめる。マスターに対して直接極端な伸縮をかけるのは避ける。
- トランジェント分離(ドラムとリードを分離)→各パートで最適アルゴリズム適用→再合成、というフローは非常に有効。
近年の応用と将来展望
ディープラーニングを用いた音声・音楽処理が進む中、機械学習によるタイムストレッチの研究も進行中です。ニューラルネットワークはトランジェントや楽器特性を学習して、従来法では難しかった高伸縮比でも自然な結果を出す可能性を秘めています。ただし計算量や遅延の問題、学習データに依存する特性があるため、実装や商用化にはまだ課題もあります。
まとめ:選び方と優先順位
タイムストレッチの選択は「素材の性質(パーカッション/ボーカル/パッド等)」「目標の伸縮率」「音質優先度」「リアルタイム性(ライブ用途かオフライン処理か)」によって決まります。一般原則として、小さな調整はシンプルな手法で十分、大きな変更や音楽的な品質を重視するなら高品質アルゴリズム(フォルマント補正、トランジェント保持、ハイブリッド処理)を使うのが安全です。
参考文献
- Time stretching — Wikipedia
- Phase vocoder — Wikipedia
- Jean Laroche and Mark Dolson, "Improved Phase Vocoder Time-Scale Modification of Audio" (1999)
- WSOLA(Waveform Similarity Overlap-Add)に関する解説 — CCRMA
- zplane élastique — 製品ページ
- Ableton Live: Warp modes overview
- Celemony Melodyne — 製品ページ(タイム/ピッチ操作)


