サンプリング回路の基礎と設計ポイント—S/H・スイッチドキャパシタとA/D変換の実務解説
サンプリング回路とは — 概要
サンプリング回路とは、アナログ信号をある周期で「取り出す(サンプリング)」ための回路の総称です。デジタル信号処理やA/D変換の前段で用いられ、連続時間(アナログ)信号を離散時間(シーケンシャルな値)に変換する役割を担います。代表的な構成要素には、スイッチ(トランスミッションゲートやMOSFET)、ホールド用コンデンサ、バッファ(オペアンプや専用S/H IC)などがあり、用途によってはアンチエイリアシングフィルタやクロック発生回路とセットで設計されます。
サンプリングの基本原理とナイキスト基準
連続信号を正しくデジタル化するための基本理論はナイキスト=シャノンのサンプリング定理に基づきます。これは「信号の最大周波数成分(帯域幅)をBとしたとき、標本化周波数fsは少なくとも2B以上であるべき」と示すものです。これ未満だと高周波成分が折り返して低周波に混入する「エイリアシング」が発生します。
エイリアシングの周波数は次のように表現できます(簡略式): f_alias = |f_signal − n·fs|(nは整数)。実用的には、A/D入力に入る前にアナログのローパス(アンチエイリアシング)フィルタを置いて、不要な高周波成分を除去します。
サンプリング回路の代表的な種類
理想サンプラー(瞬時サンプラー) — 理想化されたモデルでは、信号を瞬時に無限に短い時間だけ抽出します。理論解析で用いられますが、実回路では実現不可能です。
サンプル&ホールド(S/H)/トラック&ホールド(T/H) — 実用的なサンプリング回路。トラック(追従)モードでは入力をそのまま追い、ホールドモードではコンデンサに蓄えた電荷を保持して出力に供給します。A/D変換器の変換中に入力を固定するために使われます。
スイッチド・キャパシタ(Switched-capacitor)回路 — スイッチとキャパシタをクロックで切り替えることにより、等価的な抵抗を形成したり、精密なサンプリング/フィルタリングを実現します。集積回路で広く用いられます。
ディファレンシャルサンプリング — 差動信号をそのままサンプリングすることで、ノイズ耐性やコモンモード誤差低減を図ります。高精度ADCの前段で一般的です。
主要な物理現象と性能指標
サンプリング回路を設計・評価する際に重要な性能指標と現象を以下に示します。
アパーチャ時間(aperture time)とアパーチャ誤差(aperture jitter)
アパーチャ時間はスイッチが閉じてから電荷が決定的に蓄えられるまでの実効的時間幅を示します。アパーチャ(ジッタ)とはサンプリング瞬間の時間的不確かさで、入力が高速に変化している場合、時間誤差は電圧誤差に変換されます。近似式: ΔV_jitter ≈ (dV/dt)·t_jitter。正弦波入力A·sin(2πft)のときdV/dtの最大は2πfAであるため、高周波になるほどジッタの影響は大きくなります。kT/C ノイズ(熱雑音)
サンプリング時にコンデンサに蓄えられる熱雑音は概ね Vrms = sqrt(k·T / C) で表されます(kはボルツマン定数、Tは絶対温度、Cはサンプリングコンデンサ)。高精度を目指すならCを大きくすることで熱雑音を低減できますが、容量増は回路の帯域や充電時間(取得時間)に影響します。チャージインジェクションとクロックフィードスルー
MOSスイッチなどをオン/オフする際に、スイッチのチャネルや配線からホールド容量へ不意に電荷が注入される現象(チャージインジェクション)およびゲート-ドレイン間容量を介したクロック信号の漏れ(クロックフィードスルー)は、ホールド電圧誤差や歪みの原因になります。対策としては、ブートストラップ型スイッチやバランシング回路、差動構成の採用があります。ドリフト・ホールドリーク(ホールド保持の劣化)
ホールド期間中にコンデンサからリーク電流が流れ、電圧が変化する現象です。時間当たりのドリフトはホールド期間や要求精度に合わせて評価・最適化する必要があります。入力駆動源のインピーダンスと取得時間(acquisition time)
サンプリングコンデンサを所望電圧まで充電するためには一定の時間が必要です。ソースの出力インピーダンスやスイッチのオン抵抗、並列抵抗によって時定数が決まります。取得時間が短いときはバッファアンプを挿入する、トランスミッションゲートを使ってオン抵抗を下げるなどの対策が必要です。線形性、歪み、SNR/ENOB
サンプリング回路の非線形性は、全体のSNRやENOB(Effective Number Of Bits)に直結します。スイッチ非線形、チャージインジェクション、バッファの歪み、コンデンサの温度依存性(容量誤差)等が寄与します。システム設計ではA/Dの分解能に見合ったS/H性能(リニアリティ、ジッタ、ノイズ)を確保する必要があります。
スイッチの種類と設計上の工夫
実装で用いられるスイッチは主にMOSFETやCMOSトランスミッションゲート、JFET、リレーなどがあり、集積化レベルや周波数要求によって選びます。MOS系スイッチは小型・廉価ですが、オン抵抗の変動、チャージインジェクション、ボディダイオードの影響があるため、対策が必要です。
代表的な工夫:
- トランスミッションゲート(NMOSとPMOSの並列)でオン抵抗を低減し、入出力レンジを拡大
- ブートストラップスイッチでスイッチのゲート電圧を上げ、オン抵抗を一定化
- チャージインジェクションを相殺するための対向スイッチ配置や補償回路
- 差動構成でコモンモードの変動やクロック漏れをキャンセル
サンプリング回路とA/D変換器の接続(実戦的注意点)
A/Dに接続する場合、サンプリング回路は単に電圧を蓄えるだけでなく、A/Dの入力仕様(入力容量、サンプル時間、内部スイッチング動作)に合わせる必要があります。ADC内部のサンプルキャパシタに素早く充電するためには、外部S/Hの取得時間やオン抵抗、バッファ出力能力などを検討します。
また、ADCの内部サンプルアンドホールドがある場合でも、ソースインピーダンスが高いと内部コンデンサが十分に充電されず、アナログフロントエンドに外部S/Hやバッファを必要とすることがあります。
周波数領域から見たサンプリング — ZOHと再構成
実際のサンプリング動作はゼロ次ホールド(ZOH)成分を持ち、周波数領域で見るとサンプル&ホールドはsinc(sin x / x)型の周波数応答を与えることが多いです。サンプリング後にD/A再構成する際は、このホールド応答が帯域・振幅特性に影響を与えるため、補正フィルタやデジタル補正が用いられます。
スイッチドキャパシタ回路の代表原理
スイッチドキャパシタ回路では、クロック周波数fswでキャパシタを周期的に充放電することで、等価抵抗 R_eq = 1 / (C · fsw) を実現できます。これにより、高精度な抵抗機能やフィルタをチップ内部で実現可能です。スイッチングに伴うノイズやクロック漏れ、スナップショット的なエネルギー移動(チャージブート)が設計課題になります。
実際の設計上のチェックリスト
- サンプリング周波数と入力信号の最大周波数を照らし合わせ、必要なアンチエイリアシングフィルタを決定する。
- 必要SNRやENOBからkT/Cノイズを見積もり、最小コンデンサ値を決定する。
- アパーチャジッタの仕様をADCの仕様と照らし合わせ、高周波成分に対する許容電圧誤差を評価する。
- 取得時間(acquisition time)を見積もり、スイッチのオン抵抗とソースインピーダンスから十分な充電時間を確保する。
- チャージインジェクションやホールドリークが許容誤差内に入るか、必要なら補償回路や差動化を検討する。
- 基板レイアウトでクロック線とアナログ信号の分離、グラウンド設計を徹底する(クロックの電磁ノイズ抑制)。
応用例とケーススタディ
高精度計測器 — 医療用スキャナや精密計測器では、低雑音・低ドリフトなS/Hを用いて長サンプル保持中の誤差を抑えます。大型容量+低リークコンデンサ、低ジッタクロック、温度補償が必須です。
高速データ収集(測定器、レーダー、ソフトウェア無線) — サンプリング速度が非常に高くなるため、スイッチのオン抵抗やアパーチャジッタが支配的になります。アンチエイリアス、クロック配線、差動入力の採用が重要です。
集積化アナログIC(ADC内蔵) — 多くの集積ADCは内部でS/Hやスイッチドキャパシタ回路を用いています。外付けS/Hはソースの駆動力や外乱耐性によって要求されます。
設計上の実用的な数値例(概算)
以下は概算の目安です(実設計では必ず部品のデータシートやシステム要求に基づく評価を行ってください)。
- 10ビット分解能のSNR要求: 約60 dB。熱雑音や雑音を合わせてこのSNRが得られるようにする。
- kT/CノイズをSNR寄与として考える場合、Vrms_noise = sqrt(kT/C)。室温(T≈300K)でC=10 pFならVrms ≈ sqrt(1.38e-23·300 / 10e-12) ≈ 0.64 μV?(実際は他の雑音源と合成)
- スイッチドキャパシタの等価抵抗: R_eq = 1 / (C·fsw)。例えばC=10 pF, fsw=1 MHzならR_eq≈100 kΩ。
- ジッタノイズの目安: ΔV_jitter ≈ 2π f_signal A · t_jitter。信号周波数が高いとジッタ許容値は厳しくなる。
まとめ — 設計で重視すべきポイント
サンプリング回路は単に「信号を切る」装置ではなく、ノイズ、ジッタ、線形性、帯域、取得時間など多くのパラメータが相互に関係する複合的な設計領域です。要求されるA/D分解能や帯域に応じて、コンデンサ容量、スイッチ種別、クロック品質、バッファの種別、差動化の有無などを総合的に評価して初めて、信頼性の高いシステムが得られます。メーカーのサンプル&ホールドICやアナログフロントエンドの資料、アプリノートを参照し、設計シミュレーション(SPICE等)で実環境下の振る舞いを確認することが重要です。
参考文献
- Nyquist–Shannon sampling theorem — Wikipedia
- Sample-and-hold — Wikipedia
- Switched-capacitor — Wikipedia
- Analog Devices: Sample-and-Hold Amplifier Basics
- TIアプリノート: Understanding ADC Sampling and Track-and-Hold Requirements (例:TI資料)
- Thermal noise — kT/C noise — Wikipedia
- Maxim Integrated: Sample-and-Hold Circuit Basics
- Analog Devices アプリノート(サンプリング特性と設計)


