H.265(HEVC)完全ガイド:仕組み・利点・実装とライセンスの最新動向

はじめに — H.265(HEVC)とは何か

H.265(正式名称:High Efficiency Video Coding、略称 HEVC)は、動画圧縮の国際標準規格の一つで、ITU-T と ISO/IEC によって規格化されました。2013年頃に標準化が完了し、従来の H.264/AVC と比べて同一画質で通信帯域や保存容量を大幅に削減できる点が大きな特徴です。4K/8KやHDRといった高解像度・高色深度の映像コンテンツの普及に伴い、HEVC は主要なコーデックとして広く採用されてきました。

標準化の経緯と位置づけ

HEVC は ITU-T の H.265 および ISO/IEC 23008-2 として規格化されています。前世代の H.264(AVC)からの技術的な進化を図り、主に以下の目的で設計されました。

  • 同等の視覚品質でビットレートの大幅削減(コンテンツにより 25%〜50% の改善が典型的)。
  • 4K/8K、HDR、広色域(高ビット深度)など次世代映像への対応。
  • ハードウェア実装によるデコードの効率化(ハードアクセラレーションの容易化)。

基本アーキテクチャ — 何が変わったか

HEVC は映像を効率よく表現するために、ブロック構造、予測、変換、符号化(エントロピー符号化)、フィルタリングといった要素を高度化しました。主要な技術要素は次の通りです。

  • CTU(Coding Tree Unit): 従来のマクロブロックに相当する単位で、HEVC では最大 64×64 の CTU を採用しています。これにより、平坦領域や複雑領域で柔軟なブロック分割が可能となり、効率が上がります。
  • 可変形状ブロック分割: CTU 内でさらに細かく分割でき、四分木(quadtree)に似た形や、PU(Prediction Unit)、TU(Transform Unit)など用途に応じた分割が行えます。
  • 高精度な予測: 帯域削減のために高度なイントラ(フレーム内)予測やインター(フレーム間)予測を備えています。イントラの角度方向モードは多数(多数の方向性モードを持ち、細かな角度の予測が可能)で、インターはマージ(merge)やAMVPといった効率的なモーション情報再利用手法をサポートします。
  • 変換・量子化: 周波数領域での表現効率を高めるために可変長の変換や複数サイズの変換が利用され、残差を効率よく量子化します。
  • 符号化(CABAC): H.264 でも採用されていた CABAC(Context-Adaptive Binary Arithmetic Coding)を改良して使用し、ビットストリームの圧縮効率を向上させます。
  • ループフィルタ: デブロッキングフィルタに加えて、サンプル適応オフセット(SAO:Sample Adaptive Offset)を導入し、量子化ノイズの視覚的影響を低減します。

プロファイルとカラーユニット

HEVC には用途に合わせた複数のプロファイルが規定されています。代表的なものに Main(8bit)、Main 10(10bit)、Main 4:4:4、Main Still Picture などがあります。10bit を扱える Main 10 は HDR や広色域のコンテンツに不可欠です。商用コンテンツでは色深度・クロマサブサンプリング(4:2:0、4:2:2、4:4:4)に応じたプロファイルを選択します。

圧縮効率と品質評価

HEVC の圧縮効率は多くの研究で H.264 比で大幅な改善が示されていますが、実際の利得はコンテンツ(動きの量、ディテール、ノイズ)、エンコーダの実装、設定(プリセット、レート制御方式)に依存します。視覚的品質評価では PSNR、SSIM、より最近では VMAF(Netflix が開発)などの指標が使われます。特に視聴体験に近い評価には VMAF が有用です。

エンコーダとデコーダの実装例

主要なオープンソース実装には x265(エンコーダ)、Kvazaar(研究実装)や FFmpeg の libx265 バインディングなどがあります。ITU の HM(HEVC Test Model)は参照実装(研究目的)として使われます。ハードウェアでは多くの SoC(スマートフォン向け)や GPU、ASIC が HEVC のデコードをサポートしており、エンコードも NVENC(NVIDIA)、Intel Quick Sync、AMD VCN などでハードウェアアクセラレートできます。

コンテナと互換性

HEVC のビットストリームは MP4(ISO BMFF)、Matroska(MKV)、MPEG-TS、MOV など複数のコンテナで運用されます。MP4 で流通させる場合、'hvc1' や 'hev1' といったコーデック識別子、hvcC(HEVC のコンフィギュレーションボックス)を正しく設定する必要があります。互換性確保のため、ターゲットデバイスのサポート状況を確認して適切なプロファイルとレベルを選ぶことが重要です。

ライセンスと特許の状況(重要)

HEVC は多くの企業が関わる技術であり、関連特許が多数存在します。そのため実運用に際してはライセンス費用の問題が生じることがあります。歴史的に複数の特許プール(例:MPEG LA、HEVC Advance 等)や個別特許ホルダーが存在し、ライセンス条件が複雑でした。これが一部の企業やサービスにおける HEVC 採用の障壁となり、代替として VP9 や AV1(ロイヤリティポリシーが異なる)を選択する動機になった側面があります。導入前には必ず最新のライセンス情報と法務チェックを行ってください。

ブラウザとプラットフォームのサポート状況

ブラウザレベルのネイティブ HEVC サポートは限定的です。Safari(Apple)では macOS/iOS のプラットフォームで HEVC デコードが広くサポートされていますが、Chrome や Firefox は一般的にライセンスの問題や OS 依存性からデフォルトでのサポートが限定されています。Web 配信やブラウザ再生を重視する場合は、HEVC と並行して VP9/AV1 の採用を検討する必要があります。

配信・ストリーミングでの利用方法

ライブ配信や VOD(ビデオ・オン・デマンド)で HEVC を使う場合、次の点を検討してください。

  • CDN とエンドデバイスのデコード対応状況。
  • Adaptive Bitrate (ABR) 配信のための複数ビットレートの用意。HTTP Live Streaming(HLS)は Apple のエコシステムで HEVC をサポートしています。
  • リアルタイム用途(WebRTC 等)ではエンコード遅延や互換性の問題を考慮する必要があります。多くの WebRTC 環境では VP8/VP9/AV1 の方が現状では採用されやすいです。

H.264 との比較、そして AV1/VVC との位置づけ

HEVC は H.264 に対して同等画質でビットレートを大きく下げられる点がメリットです。一方、ライセンスの複雑さやエンコード/デコードの計算コスト(特にソフトウェアエンコード時)といった課題もあります。近年では AV1(AOMedia Video 1)がロイヤリティポリシーの面で注目され、圧縮効率でも HEVC を上回るケースが増えています。さらに次世代規格である VVC(H.266)は HEVC をさらに置き換える可能性を持っていますが、エコシステムの成熟には時間を要します。

実務的な導入・運用のポイント

  • ターゲットデバイスと用途(ストリーミング、ダウンロード、編集)を明確にし、対応するプロファイルを選定する。
  • エンコーダ設定ではプリセット(速度 vs 画質のトレードオフ)、CRF(品質制御)、レート制御(CBR/VBR)を適切に設定する。x265 の CRF ベースは実務でよく使われます。
  • 10bit(Main 10)を使う場合は HDR ワークフロー(メタデータ、色空間、トランスファー特性)を整備する。
  • エンコーダとデコーダの実装差による互換性問題に注意。必ず複数プラットフォームでの再生テストを行う。
  • 法務的なライセンスチェックを怠らない。商用配信・デバイス組み込みでは必須。

実際のチューニング例(エンコード設定のヒント)

エンコード速度を優先する場合はハードウェアエンコード(NVENC 等)を、品質を最大化する場合は x265 の slower/veryslow プリセットを検討します。CRF 方式は品質の一貫性が取りやすく、ストレージ向けアーカイブでは CRF 18〜24 程度、配信向けは目的の帯域に合わせて VBR/ABR を使います。Main 10 を使用することで HDR コンテンツの品質を維持できますが、デコード互換性を確認してください。

将来展望とまとめ

HEVC は高解像度・高品質映像を効率よく扱うための有力な選択肢であり、ハードウェアサポートも広がっています。ただし、ライセンスの問題や新規コーデック(AV1、VVC)の登場により、用途とビジネスモデルに応じた慎重な採用判断が必要です。短期的には 4K/HDR コンテンツの配信や放送、プロ向け編集ワークフローで HEVC の採用が続く一方で、長期的にはロイヤリティ方針やエコシステムの成熟度に応じてコーデック戦略を見直すことが求められます。

参考文献