フランシスコ・カナロ:情熱と革新の軌跡 | フランシスコ・カナロの生涯と代表的な楽曲、逸話を詳しく紹介!

フランシスコ・カナロは、タンゴ黄金時代を代表する伝説的な楽団長・作曲家です。
ウルグアイのサン・ホセ・デ・マヨに1888年に生まれ、幼少期にアルゼンチンのブエノスアイレスへ移住しました。
極貧の家庭に育った彼は正規の音楽教育を受けられませんでしたが、幼い頃から音楽に強く惹かれ、独学でギターやマンドリン、ヴァイオリンを習得しました。
お金がなくヴァイオリンを買えなかったため、空き缶に木片の指板を取り付け、自作のヴァイオリンで演奏の腕を磨いたといいます。
初めて覚えたタンゴの曲は「エル・ジョロン(泣き虫)」でした。
10代後半になると街角で演奏して小銭を稼ぎ、18歳のときにブエノスアイレス郊外ランチョスの酒場でトリオ編成の楽団としてプロデビューを果たします。
この初舞台では、客同士の銃撃戦から身を守るため演奏ステージを鉄板で覆わなければならないほど荒っぽい環境で、若きカナロはタンゴの世界の洗礼を受けました。
生涯 – 下積みから成功へ
1908年、カナロは著名なバンドネオン奏者ビセンテ・グレコと出会い、大きな影響を受けます。
この頃から本格的にタンゴの道を志し、グレコの楽団に参加して各地を巡業するうちに頭角を現しました。
1912年には自身のタンゴ作曲にも取り組み始め、翌年以降「ピンタ・ブラバ」「マタサノス」といった楽曲を発表します。
1915年、26歳になったカナロは初めて自ら楽団を率いて指揮を執り、医学部インターン(研修医)の舞踏会「バイレ・デル・インテルナード」で楽団を指揮しました。
この舞踏会で披露したコミカルなタンゴ「エル・アラクラン(サソリ)」や「マタサノス(藪医者)」は大好評を博し、カナロの名は一躍知られるようになります。
1916年のカーニバル舞踏会でも連続して指揮者に抜擢され、圧倒的な人気を誇った彼はその後も毎年招かれる看板存在となりました。
1921年のカーニバルでは、当時としては破格の32名編成による大楽団を結成して演奏会を行い、タンゴ界に初めて“大編成オーケストラ”のアイディアを持ち込みます。
カナロの楽団は社交界からも注目を集め、高級クラブや上流階級のサロンにも招かれるようになりました。
それまで上流社会では卑俗な踊りと見なされ敬遠されていたタンゴですが、カナロの洗練された演奏によってついに社交界に受け入れられたのです。
1924年には、新しい試みとして楽団に歌手を迎え入れ、各曲の間奏(エストリビージョ)部分だけを歌わせるというスタイルを考案しました。
これは世界初の試みで、最初のエストリビージョ歌手となったロベルト・ディアスを皮切りに、この「エストリビージョ歌手」の流行がタンゴ界に定着していきます。
翌1925年、カナロは自らの楽団を率いて欧米ツアーに乗り出し、まずパリで公演を行いました。
タンゴが熱狂的ブームとなっていた当時のパリでは大成功を収め、スペインや他のヨーロッパ諸国でも喝采を浴びます。
パリでは女性歌手テレシータ・アスプレーラも起用し、渡米公演ではリンダ・テルマを帯同するなど、各地で趣向を凝らした舞台を展開しました。
1927年にアルゼンチンへ帰国した後、カナロは国中を巡業して地方でもファンを獲得し、ラジオ放送の黎明期にはいち早く進出して電波を通じ国民的人気を博しました。
1930年代に入ると、自身の楽団によるレビュー(タンゴ音楽劇)を制作し、舞台用にタンゴ曲を交響楽風に編曲して序曲や間奏曲に仕立てるなど、新たな試みも行っています。
一方で、旧来のタンゴを掘り起こし、曲名を変えて歌詞付きで発表し直すなど、タンゴの伝統と革新の双方に目を配りました。
「タンゴン」や「ミロンゴン」と称する新リズムの考案にも挑戦しましたが、これらは大衆に定着するには至りませんでした。
1930年代末には楽団を一時縮小して往年の曲を演奏する「キンテート・ピリンチョ(ピリンチョ五重奏団)」を結成し、自身の原点である初期タンゴの再評価にも貢献しています。
映画産業にも乗り出し、カナロは自ら「リオ・デ・ラプラタ映画社」を設立して映画製作を試みました。
しかし残念ながら商業的には成功せず、数本の映画を製作した後に会社を手放しています。
それでもタンゴ音楽家としての彼の人気と成功は揺るがず、次々と名曲を生み出し続けました(後述)
1956年には自伝『私のタンゴ50年(Mis 50 años con el tango)』を出版し、自らの半世紀に及ぶキャリアを振り返っています。
晩年は奇病パジェット病に侵され、徐々に音楽活動から退きました。
1964年12月14日、ブエノスアイレスで仕事場から病院へ搬送された際にそのまま帰らぬ人となり、76年の生涯を閉じました。
音楽スタイルの特徴
カナロが約60年にわたりタンゴ界の第一線で君臨できたのは、その柔軟な適応力と揺るぎない信念に支えられていました。
時代ごとに編成やアレンジの工夫を凝らしつつも、彼のタンゴは一貫してメロディアスで親しみやすく、「踊れるタンゴ」であり続けたのです。
テンポは極端に速過ぎず遅過ぎず中庸を守り、リズムの芯を外さない演奏は、タンゴが純粋な鑑賞音楽としてモダン化する潮流の中でもその魅力が色褪せませんでした。
こうした演奏スタイルは一見平易に思えますが、実は高度なバランス感覚の賜物でした。
カナロの楽団には「これぞカナロ」という明確な個人色がないとも評されます。
しかしそれは裏を返せば、場所や聴衆に応じて自在にスタイルを変化させ、他のスター楽団と競合しないよう巧みに自分のポジションを守っていたことを意味します。
流行に合わせて変幻自在にアレンジを調整できるカナロの柔軟性こそが、長期間にわたる大衆的人気の秘訣でした。
一方で、カナロは革新的な試みも貪欲に取り入れています。
その一つがタンゴ楽団へのコントラバス(コントラバッソ)導入です。
創成期のタンゴ楽団はバイオリン、フルート、ギター、バンドネオンなどが中心で低音域が手薄でしたが、カナロはベースとなるコントラバスを編成に加えることで現在のオルケスタ・ティピカ(典型的タンゴ楽団)の基礎を築きました。
重厚な低音の導入によってタンゴのアンサンブルは一段と深みを増し、以降この編成は他の楽団にも標準的に広まっていきます。
さらに前述のエストリビージョ歌手の考案も大きな功績です。
1924年に楽曲のサビ部分のみを歌う歌手を採用したこのアイディアは瞬く間に流行し、以後1930年代までタンゴに歌手をフィーチャーする風潮を生み出しました。
これは後のタンゴ・カンシオン(歌謡タンゴ)の発展に繋がる重要な一歩となりました。
加えて、1930年代にはシンフォニック・タンゴ(交響楽的タンゴ)と呼ばれる試みも行っています。
オーケストラに管弦楽的な厚みを持たせたアレンジや、大編成によるコンサート形式の演奏は、タンゴを劇場の舞台で鑑賞に堪える芸術へ高めようとする試みでした。
同時期にカナロは一方で先述のキンテート・ピリンチョ(5人編成)による録音も残し、小編成ならではの機動力で古典タンゴの粋を表現しています。
大編成から小編成まで自在に操ったカナロの探究心は、生涯を通じて衰えることがありませんでした。
1940年代には、より斬新なリズムの創出にも挑戦し、「タンゴン」(重厚な新タンゴ)や「ミロンゴン」(スローテンポのミロンガ)といった新ジャンルを提唱しました。
結果的に大衆の嗜好には合致せず定着はしなかったものの、こうした実験精神はタンゴに新風を吹き込もうとする情熱の表れと言えるでしょう。
代表的な楽曲
カナロは生涯に数百曲ともいわれるタンゴやミロンガを作曲し、多くの名曲が現在まで演奏・録音され続けています。
その中でも特に有名な代表曲をいくつか紹介します。
- 「センティミエント・ガウチョ (ガウチョの嘆き)」
1924年初演
カナロが弟ラファエル・カナロと共作したタンゴで、初演当初は歌詞のないインストゥルメンタル曲として発表されました。
土臭いタイトル(ガウチョとは南米のカウボーイのこと)が示すように哀愁漂うメロディーが特徴で、ブエノスアイレスのカフェ「タバリス」での公演で大成功を収めます。その後1925年に開催されたディスク・コンクールで優勝し、作詞家フアン・アンドレス・カルーソによる歌詞が付け加えられました。
歌詞版「センティミエント・ガウチョ」は広く歌われるようになり、以降タンゴのスタンダードナンバーとして定着しました。
カナロ楽団による録音はもとより、他の楽団や歌手にも多く取り上げられ、タンゴ史に残る古典的名作となっています。 - 「ラ・ウルティマ・コパ (最後の一杯)」
1926年初演。
こちらも作詞カルーソ、作曲カナロによるタンゴで、失意の男が酒場で「最後の一杯」の酒に溺れる様を歌った哀愁の作品です。
1926年10月にフリオ・エスコバルの同名劇『ラ・ウルティマ・コパ』の劇中歌として初演され、歌手アグスティン・イルスタの歌で観客の涙を誘いました。
1927年にはカナロ楽団とイルスタの歌でレコード録音され、続いてタンゴの大スター、カルロス・ガルデルもこの曲を吹き込み大ヒットとなります。
ガルデル盤の影響で「ラ・ウルティマ・コパ」は世界的に知られるようになり、多くの歌手にカバーされる名曲となりました。
重厚な歌詞とメロディーが融合したこの作品は、タンゴが単なる踊りの伴奏音楽からドラマ性のある「聴かせる歌」へと進化していく時期を象徴する一曲でもあります。 - 「マドレセルバ (マドレセルバの花)」
1931年発表。
ルイス・セサル・アマドリ作詞、カナロ作曲によるタンゴで、スペイン語で「スイカズラ(忍冬)の花」を意味します。
1931年、女流歌手タニアによって初演されるやいなや大評判となり、カナロ自身もこの曲を気に入って翌1932年に名歌手シャルロの歌で、1938年にはロベルト・マイダの歌で再録音しています。
可憐な花に幼い日の思い出と初恋を重ね合わせた歌詞の世界が印象的で、タンゴの中でもひときわ叙情的な名作として愛されています。
作詞者アマドリ自身が監督を務めたアルゼンチン映画『マドレセルバ』(1938年)ではリベルタ・ラマルケが主演し、この曲を劇中で2度情感豊かに歌いあげました。
映画のヒットと相まって「マドレセルバ」はタンゴ史を代表するロマンティックな作品として不朽の地位を築きました。 - 「アディオス・パンパ・ミーア (さらば草原よ)」
1945年発表。
eマリアーノ・モレスとの共作によるタンゴで、田舎(パンパ地帯)から都会へ旅立つ男が故郷に別れを告げる内容です。
哀愁と郷愁に満ちたメロディーで、発表と同年の1945年にオデオン社からレコード録音されるや瞬く間に大ヒットしました。
作詞は名手イボ・ペレイが手掛けており、「アルゼンチンの第二の国歌」とも称されるほど国民的愛唱歌となりました。
カナロ楽団は各国でこの曲を披露し、日本でも「さらば草原よ」の邦題で紹介されています。
実際、1957年と1961年のNHK紅白歌合戦では日本人歌手によってこの曲が歌われ、日本のタンゴ愛好家にもその名を知らしめました。
ドラマチックな構成と大らかなサビの旋律は聴衆の心を掴み、現在でもタンゴのフィナーレを飾る定番曲として世界中で演奏されています。
カナロの与えた影響
輝かしい功績により、カナロは生前から「タンゴの王様(El Rey del Tango)」と称えられていました。
彼の残した作品数と録音数は桁外れで、自身の自伝では作曲700曲・録音7000曲にも及ぶと豪語しています(実際には録音テイクの重複を含む数字と見られ、確認できる正味の録音数は約3800曲とも報告されています)
いずれにせよ数千にも及ぶ録音が遺されたことは事実であり、これはタンゴ史上最多級の偉業です。
その膨大なレパートリーは20世紀前半のタンゴの発展を物語る貴重な遺産であり、後世の音楽家たちにとっても参照すべき財産となっています。
カナロは音楽面のみならず業界全体にも大きな影響を及ぼしました。
その一つが作曲家の権利向上への貢献です。
タンゴ創成期、楽曲を作っても作曲家に正当な報酬が支払われない慣行に業を煮やしたカナロは、同僚たちをまとめ1918年頃から作曲家の著作権擁護運動を主導しました。
この運動は実を結び、1935年にアルゼンチン作曲家著作権協会(SADAIC)の設立へと繋がります。
SADAICはタンゴ作曲家たちに著作権印税をもたらし、音楽家が創作で生活できる基盤を築きました。
カナロはこの団体の創設者の一人であり、本部建設用地を私財で提供するなど尽力したことから、同業者たちから深い尊敬を集めました。
演奏面でも、カナロのイノベーションは同時代の楽団や後進に多大な影響を与えました。
例えばコントラバスを取り入れた編成は瞬く間に他の楽団に波及し、以後のタンゴ楽団では欠かせない要素となりました。
またエストリビージョ歌手の導入も追随する楽団が相次ぎ、後の歌手主体のタンゴ・カンシオン時代の幕開けを準備することになりました。
カナロが切り開いたスタイルや編成上の工夫は、後に「黄金の四天王」と称されるディサルリ、トロイロ、ダリエンソ、プグリエーセら1930~40年代の名門楽団にも継承され、タンゴ音楽の発展基盤となりました。
カナロ自身は彼ら四天王より一世代前の人物ですが、まさに彼らが活躍する黄金期を支え導いた巨匠だったのです。
さらに、タンゴを世界に広めた功績も見逃せません。
1920年代に欧米公演を成功させたことで、パリをはじめ海外でタンゴブームを巻き起こし、アルゼンチン国外にタンゴの魅力を浸透させました。
ブエノスアイレスの下町生まれの音楽だったタンゴが国際的芸術へと飛躍する契機を作ったのは、カナロ楽団の存在が大きかったのです。
彼の楽団は各国で録音も行い、そのレコードは世界中のダンスホールで演奏されました。
タンゴが地理と言語の壁を越えて愛されるようになった背景には、カナロのグローバルな活動と普及努力があったといえるでしょう。
エピソード・逸話集
タンゴ界の大スターであったカナロには、数多くの興味深い逸話が伝わっています。
ここではその一部をご紹介します。
- 愛称「ピリンチョ」の由来
本名はフランシスコ・カナロッソですが、生まれた直後、取り上げた産婆が「あら、この子はピリンチョ(南米産の鳥でトサカのある鳥)みたい!」と叫んだことから、一生のニックネーム「ピリンチョ」が定着しました。
赤ん坊のカナロの髪がふさふさとして鳥の冠羽のように立っていたのが由来で、家族や友人から親しみを込めてそう呼ばれました。 - 「カナロより金持ち」
カナロはタンゴで成功を収め巨万の富を築いたため、アルゼンチンでは「奴はカナロより金持ちだ」という言い回しが生まれました。
大金持ちを形容する俗諺で、いかに彼が裕福であったかを物語っています。
実際、タンゴの大スター歌手カルロス・ガルデルでさえ、競馬場でカナロに出会った際に「お前は大金持ちなんだから、この500ペソ貸してくれよ。返済はナシでな」と冗談を飛ばしたといいます(500ペソは当時の庶民には法外な大金でした)。
ガルデルが「自分はお前ほど金持ちじゃない」とへりくだるほど、当時のカナロの財力は群を抜いていたのでした。 - 初舞台の修羅場
前述のように、カナロの初期キャリアは決して華やかなものではありません。
18歳で出演した郊外ランチョスの酒場では、酔客たちが発砲騒ぎを起こす荒れた環境でした。
演奏者たちは身を守るためステージに鉄板の盾を設置し、恐怖に震えながら演奏を続けたといいます。
また、同じ店で用心棒の男が何人も人を殺したという噂話を聞かされるなど、命の危険と隣り合わせの経験を若き日のカナロは味わいました。
こうした修羅場を潜り抜けたタフさも、後の大成功の糧になったのかもしれません。 - 歌姫アダ・ファルコンとの愛憎劇
カナロの楽団で1930年代に活躍した妖艶な歌手アダ・ファルコンとのロマンスは、タンゴ史上最も有名なスキャンダルの一つです。
二人は長年にわたり深い仲でしたが、当時既婚者だったカナロは彼女からの離婚・再婚の要求をついに受け入れませんでした。
理由は財産分与です。
弁護士から「離婚すれば財産の半分を失う」と忠告されたカナロは、愛より財産を選び離婚を思いとどまったと伝えられています。
さらに劇的な事件が発生します。
あるリハーサルの休憩時間、カナロの膝の上に腰掛けて甘えていたアダの元に、突然カナロの妻(愛称ラ・フランセサ=「フランス女」)が乗り込んできたのです。
妻はハンドバッグから拳銃を取り出すと激昂しながらアダに突きつけ、間一髪でアダは悲鳴を上げて楽団部屋から逃げ去りました。
この事件の数日後、アダ・ファルコンは楽団を脱退し、そのまま忽然と表舞台から姿を消してしまいます。
彼女は1942年に突然引退し修道院に入ったため、「緑の瞳の歌姫の謎の失踪」として今なお語り草になっています。
カナロとの愛憎劇が彼女を芸能界から遠ざけた一因とも噂され、タンゴ史に残る悲恋のエピソードとなりました。 - 日本公演の成功
世界的に活躍したカナロですが、生涯ただ一度だけ日本を訪れています。
1961年、73歳の時に楽団を率いて来日公演を行い、日本のタンゴ愛好家たちを熱狂させました。
戦後日本ではタンゴがブームになっており、カナロの来日は大きな話題となりました。
高齢にもかかわらず情熱的な指揮ぶりで日本の聴衆を魅了し、この公演をきっかけに日本で「さらば草原よ(Adiós Pampa Mía)」など彼の名曲が一層広く知られるようになりました。
晩年の貴重な来日公演は、日本のタンゴ史にも刻まれた特筆すべき出来事です。
まとめ
フランシスコ・カナロはその波乱に富んだ生涯と膨大な音楽遺産によって、「タンゴの父」とも言うべき存在となりました。
草創期から黄金期までタンゴの発展に寄与し続けた彼の功績と情熱は、今なお世界中のタンゴ愛好者の心を捉えています。カナロの奏でたメロディーは時代を超えて生き続け、タンゴという音楽の魂を語り継ぐ伝説として輝き続けるでしょう。
参考文献・出典
https://www.todotango.com/english/artists/biography/28/Francisco-Canaro/
https://brisbanehouseoftango.com.au/francisco-canaro-a-true-star-of-tango/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AD
https://es.wikipedia.org/wiki/Sentimiento_gaucho
https://www.originals.be/en/originals/8471
https://www.milongapress.com/tango-masters/canaro
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