カルロス・ディサルリの生涯、代表的な作品、逸話について詳しく紹介!

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カルロス・ディサルリ(Carlos Di Sarli, 1903-1960)は、アルゼンチンのタンゴ音楽家であり、楽団リーダー、作曲家、そしてピアニストです​。

その端正でエレガントな音楽性から「エル・セニョール・デル・タンゴ(タンゴの紳士)」の愛称で親しまれ、タンゴ黄金期を代表するオルケスタ(楽団)を率いました​。

ディサルリは独自のスタイルで社交ダンスとしてのタンゴ音楽を完成させ、生涯にわたり情熱的かつ洗練された演奏で聴衆を魅了しました。

生涯

生い立ちとキャリアの始まり

1903年1月7日、ディサルリはアルゼンチン南部の港町バイア・ブランカで、イタリア移民の父ミゲルと母セラフィナのもとに生まれました​。

本名はカジェターノ・ディサルリといいますが、後に「カルロス」に改名しています​。

一家は音楽好きの家庭で、兄の一人は音楽教師、別の兄はバリトン歌手となり、弟のロケもピアニストになったほどでした​。

幼いカルロスも音楽院でクラシックピアノの教育を受けます​。

しかし1916年、13歳のとき父親の銃砲店での事故により片眼を負傷し、生涯サングラスを手放せなくなりました​。

怪我から回復したディサルリは、家族の反対を押し切ってアルゼンチン各地を巡る巡業楽団に加わり、大衆音楽やタンゴを演奏して回ります​。

その後ラ・パンパ州サンタロサの映画館で無声映画の伴奏ピアニストを務めるなど下積みを経験し、1919年に地元バイア・ブランカへ戻って自身初のオルケスタを結成しました。

地元のカフェで演奏し各地を巡業したこの最初の楽団が、ディサルリの長い音楽キャリアの始まりでした。

ブエノスアイレスでの成功

1923年、弟ロケとともにタンゴの都ブエノスアイレスへ上京したディサルリは、当初さまざまな楽団で腕を磨きました​。

バンドネオン奏者アンセルモ・アイエタやヴァイオリン奏者フアン・ペドロ・カスティージョの楽団に参加し、女優オリンダ・ボサンの伴奏も務めるなど経験を積みます​。

1926年には憧れの存在であったオスバルド・フレセドの楽団に紹介され、劇場のこけら落とし公演でピアノを担当しました​。

フレセドの洗練された作風は若きディサルリに大きな影響を与え、後年ディサルリは自作のタンゴ「ミロンゲーロ・ビエホ(古きミロンガ愛好家)」を師匠フレセドに捧げています​。

1927年末、カルロス・ディサルリ楽団(六重奏団)を結成すると、ラジオやカフェでの演奏活動を本格化し、RCAビクター社と契約して1928年からレコーディングを開始しました​。

1928年11月の初録音ではエドガルド・ドナート作曲の「T.B.C.」、続いてエデュアルド・アローラス作曲の「ラ・ギタリータ」などを吹き込み、1931年までに計48曲の録音を残しています​。

当時はインストゥルメンタル(器楽演奏)のほか、エストリジョ(歌入りの短い部分)を歌うボーカルも起用し、エルネスト・ファマやフェルナンド・ディアスら人気歌手が録音に参加しました​。

波乱と再起

1930年、ブエノスアイレスの老舗カフェ「エル・ヘルミナル」で演奏中に、舞台上でサングラスをかけるディサルリの姿勢を店主にとがめられる事件が起こります​。

幼い頃の負傷というやむを得ない事情にも関わらず批判されたディサルリは激怒し、楽団を率いて活動拠点を一時バイア・ブランカに戻してしまいました​。

その後1934年には自身の楽団を去り、ロサリオに赴いてバンドネオン奏者フアン・カンバレリらと小編成バンドを組むなど迷走します​。

一方、残された楽団メンバーはディサルリ不在のまま「オルケスタ・ノベル(新人楽団)」と改名して演奏を続けました​​。

1935年、楽団員たちの懇願で一時ディサルリが復帰する場面もありましたが​、真の復活はそれから数年後に訪れます。ディサルリは1938年末に新しく楽団を再編成し、1939年1月にラジオ・エル・ムンド局で再デビューを果たしました​​。

新生ディサルリ楽団は当初歌手イグナシオ・ムリリョを擁し、間もなく16歳の新星ロベルト・ルフィーノが看板歌手に抜擢されます​​。

1939年12月11日、ビクター社で再び録音を開始し、自作のタンゴ「コラソン(心)」(エクトル・マルコ作詞)と、カルロス・ポサダス作曲「Retirao」を吹き込みました​​。

若き名歌手ルフィーノとの黄金コンビで「悲しみの海 (Tristeza Marina)」など数々の名演を生み、1940年代にはタンゴ界のトップオルケスタとして圧倒的な人気を博します​​。

そのエレガントで踊りやすいタンゴはカーニバル舞踏会でも引っ張りだこになり、ディサルリの名声は生涯にわたり輝き続けました​。

晩年

ディサルリは1949年に商業上の理由から一時レコード録音から引退しますが​、1951年に楽壇に復帰しました​。

以後も1950年代を通じて精力的に活動し、名歌手アルベルト・ポデスタやホルヘ・デュラン、オスカル・セルパ、マリオ・ポマールら次々と迎え入れては数多くの録音を残しています​。1954年以降は再び古巣ビクター社で録音し、1958年には最後の録音セッションをオランダ・フィリップス社で行いました​。

晩年まで自身のスタイルを貫いたディサルリですが、この頃には病魔に侵されており、1959年3月8日ブエノスアイレス近郊のクラブで行った最後の公演をもってステージから退きます​

そのラストステージの最後に披露されたのは、故郷に捧げた自作のタンゴ「バイア・ブランカ」でした​。

翌1960年1月12日、長年連れ添った妻や弟ロケに看取られながら57歳で逝去。タンゴ黄金期を体現した巨匠の生涯は幕を閉じました。

音楽スタイル

独自の演奏スタイルの確立

ディサルリは伝統的なオルケスタ(フランシスコ・カナロやロベルト・フィルポに代表される旧来派)にも、フリオ・デ・カロに端を発する前衛派にも属さず、自らの理想とする音楽様式を追求しました​。

若い頃にオスバルド・フレセドから影響を受けたものの、あくまで自分の道を貫き通し、長いキャリアを通じてそのスタイルは一貫して変わることがなかったと言われます​。

1930年代末から40年代にかけて次第に成熟したディサルリの音楽は、一聴するとシンプルで洗練されており、それでいて豊かなニュアンスと繊細さに満ちています​。

明瞭で淀みないコンパス(リズムの刻み)は踊り手にとって抜群に心地よく、初心者から熟練のダンサーまで幅広く支持されました​。

実際、全盛期当時のカーニバル舞踏会でディサルリ楽団は引っ張りだこであり、現代でも世界中のミロンガ(タンゴダンス会場)で頻繁にその録音がかかるほど踊り手に愛されています​。

楽団サウンドの特徴

ディサルリ楽団のサウンドはピアノ中心であり、リーダーである彼自身が演奏するピアノが常にオーケストラ全体をリードしていました​。

編曲上の最大の特徴は、「歌心」とリズムの調和です。

タンゴの旋律美と躍動感を両立させるために、派手な独奏(ソロ)を控えめにし、楽団全体で一体感あるハーモニーを紡ぎ出しています。

例えば録音ではバンドネオン奏者が前面に出て長いソロをとる場面はほとんどなく(有名な例外は「エル・チョクロ」での変奏くらいだと言われます​。)、バンドネオンセクションはもっぱらリズムを力強く刻むミロンゲーロ的(ダンス重視の)役割に徹しています​。

その一方でヴァイオリンセクションは、ときおり短いソロや対旋律で顔を出し、楽曲に艶やかな彩りを添えました​。

ディサルリ自身のピアノは左手の低音部で独特の装飾フレーズを奏でてリズムにニュアンスを与え、各小節を滑らかにつなぎながら上品でエレガントな「踊れるタンゴ」のビートを作り出しています​。

このように洗練された音作りによって旋律本来の美しさが引き立ち、聴衆やダンサーを魅了したのです。ディサルリの楽曲アレンジは派手さこそないものの、その粋で格調高い響きは他の追随を許さず、「タンゴの紳士」と称えられる所以ともなりました​

代表的なタンゴ作品

タンゴ愛好家にとって、カルロス・ディサルリの残した楽曲はどれも魅力的ですが、なかでも特に有名な代表曲をいくつか取り上げ、それぞれの背景やエピソードを紹介します。

  • ミロンゲーロ・ビエホ(Milonguero Viejo)
    1927~28年頃の作品で、若きディサルリが恩人オスバルド・フレセドに捧げたインストゥルメンタル曲です。
    「古強者(ふるつわもの)の踊り子」といった意味深なタイトルが付けられたこのタンゴは、師フレセドから受け継いだエレガンスを示すと同時に、後に確立するディサルリ自身のスタイルを予見させるものでした。
    録音自体はディサルリ楽団によって後年行われ、彼の初期レパートリーを代表する一曲となっています。
  • コラソン(Corazón)
    1939年、ディサルリが復活後初めて録音した自作タンゴです。
    スペイン語で「心臓」や「心」を意味するこの曲は、作詞をエクトル・マルコが手掛けました。
    カムバック時の若き歌手ロベルト・ルフィーノの情熱的な歌唱によって世に出た「コラソン」は大きなヒットとなり、以後のディサルリ楽団の快進撃を後押ししました。
    叙情的なメロディと踊りやすいリズムが見事に融合したこの楽曲は、ディサルリの作曲家としての才能と編曲センスを示す代表例と言えるでしょう。
  • ニド・ガウチョ(Nido Gaucho)
    1942年発表。
    スペイン語で「ガウチョ(農民)の巣」を意味するロマンティックなタンゴで、曲はディサルリ自身、歌詞はエクトル・マルコのコンビによる作品です。
    ディサルリ楽団ではまずアルベルト・ポデスタの歌唱で録音され、田園風景と恋心を歌った歌詞、美しく流れる旋律が当時の聴衆を魅了しました​。
    後年、1950年代にもマリオ・ポマールの歌で再録音されており、ディサルリの楽曲の中でも特に愛されるナンバーの一つとなっています。
  • バイア・ブランカ(Bahía Blanca)
    1956年作曲。
    ディサルリが故郷バイア・ブランカ市に捧げたインストゥルメンタルの名作で、彼の黄金時代における唯一の自作インスト曲とも称されます。
    1957年に初録音され、翌1958年にも再録音されましたが、最も有名なのは1957年版で、その荘重でノスタルジックな響きは故郷への郷愁を感じさせます​。
    晩年のコンサートでも締め括りに演奏されるほどディサルリ本人にとって思い入れの深い曲であり、現在でもタンゴ愛好家にとっては欠かせないレパートリーとなっています。

(この他にも、ディサルリは「メディタシオン(瞑想)」「ヴェルデマール」「オトラ・ベス・カルナバル(再びカーニバル)」など数多くの作品を手掛けています​。初期の未録音作品「メディタシオン」(1919年頃作曲)から、円熟期の「ヴェルデマール」「オトラ・ベス・カルナバル」まで、彼の作品群はいずれもタンゴ史に輝く珠玉と言えるでしょう。)

タンゴ界への影響と評価

カルロス・ディサルリは、その音楽とキャリアを通じてタンゴ界に大きな足跡を残しました。

まず、タンゴ黄金時代の舞踏タンゴを完成させた立役者としての貢献が挙げられます。ディサルリは流行の風潮に迎合した奇をてらうことなく、伝統的タンゴの情緒と踊りやすさを両立させる道を切り開きました。
その姿勢は「タンゴというパズルの最後のピース」と評され、モダンすぎず古臭くもない絶妙なバランスでダンス音楽としてのタンゴを極めたと高く評価されています​。

実際、1940年代の彼の楽団は端正で上品な演奏でダンス愛好家を熱狂させ、その洗練された解釈はタンゴ・ダンス音楽の理想形とみなされました​。

またディサルリは多くの才能を見出し育てた点でも重要です。
彼の楽団からはロベルト・ルフィーノ(当時16歳)やアルベルト・ポデスタ(当時17歳)といった若い歌手が次々とスターへと羽ばたき、彼らのキャリアにおいてディサルリ楽団での経験が大きな糧となりました。
歌手だけでなく楽団員にも厳しい指導で知られ、精鋭たちはディサルリ流の演奏様式を叩き込まれたのです​。その結果、彼と共演した音楽家たちは後年それぞれの道で活躍し、タンゴ音楽の継承と発展に寄与しました。

さらに、ディサルリの音楽的遺産は時代を超えて受け継がれています。
録音された名演の数々は21世紀の今なお世界中のミロンガで愛用され、タンゴを踊る者にとって欠かせない音楽となっています​。彼の編み出した「優雅なコンパスと豊かな表現の両立」という課題は、後のタンゴ楽団やアレンジャーたちにもインスピレーションを与えました。
ディサルリ自身は前述のように直接的な流派を残したわけではありませんが、その影響は広範囲に及んでおり、「タンゴの紳士」としての姿勢や音作りは今もってタンゴ文化の中で語り草となっています。

同時代の名指揮者アニバル・トロイロは、生前のディサルリについて「彼のピアノの秘訣は誰にも真似できず、墓場まで持って行ってしまった」と評したと伝えられます​。

この言葉は、ディサルリの卓越した芸術性がいかに唯一無二であったかを物語る逸話と言えるでしょう。タンゴの歴史において、カルロス・ディサルリは伝統とモダンを架け橋しつつ踊れるタンゴの美学を確立した巨匠として不滅の存在なのです。

ディサルリにまつわる逸話

ディサルリの人生と人物像に関しては、多くの興味深い逸話が伝えられています。ここではタンゴ愛好家の間で語り継がれる代表的なエピソードをいくつか紹介しましょう。

  • 黒いサングラスと舞台事件
    ディサルリと言えば常に黒いサングラスがトレードマークでしたが、前述の通りこれは幼少期の事故による失明の後遺症でした。
    1930年、出演先のカフェ「エル・ヘルミナル」でサングラス着用を咎められ激怒した彼は、契約先ごと演奏の場を去ってしまいます。
    この事件は当時タンゴ界の噂となり、ディサルリの頑固さと誇り高さを示す逸話として語り草になりました。
  • 映像を拒んだ謎多き芸術家
    ディサルリには非常に内向的で完璧主義な一面があり、生演奏の場でも自分の姿が記録されることを極度に嫌っていました。
    彼は楽団演奏中にカメラを向けられると演奏を止めてしまい、決してフィルムに自分の指さばきを残さなかったといいます。
    そのため彼の華麗なピアノさばきを収めた映像は一切現存せず、同業者であるアニバル・トロイロから「ディサルリは芸術上の秘密をすべて墓まで持って行った」と嘆かれる結果になりました。
  • 楽団員の大量脱退事件
    ディサルリの完璧主義ゆえに、楽団員との軋轢もしばしば生じました。
    実際、彼の楽団では少なくとも三度(1931年、1948年、そして1956年)に大半のメンバーが一斉退団する騒動が起きています。
    特に1956年の脱退劇では抜けたメンバーが皮肉にも「ロス・セニョーレス・デル・タンゴ(タンゴの紳士たち)」なる新楽団を結成する事態となりました。
    しかしディサルリは慌てることなくすぐに代役を補充し、スタイルを変えることなく演奏活動を続行したと伝えられています​。
    このエピソードは彼のリーダーシップと妥協なき姿勢を物語るものとして有名です。
  • 名前を呼ぶのも憚られた存在
    タンゴ界には俗信めいた噂もつきものですが、ディサルリの場合、その姓「Di Sarli」が不吉な**“ヨーロッパの邪視”**(スペイン語で yeta イェタ、つまり縁起の悪いもの)と音が似ていることから、一部で「彼の名前を口にすると縁起が悪い」などと冗談交じりに囁かれました。
    迷信めいた話ではありますが、ディサルリ本人にとっては心外だったようで、この風評には少なからず悩まされたとも言われます。
    このようにディサルリは生涯を通じて謎めいたカリスマ性を放ち、数々の伝説を生んだ人物でした。

まとめ

タンゴ黄金期を彩ったカルロス・ディサルリ。その生涯と音楽は、タンゴという芸術の持つ奥深さと魅力を物語っています。
伝統を敬いながらも自身の美学を貫いたその姿勢、そして生み出された優雅で情熱的なサウンドは、今なお世界中のタンゴ愛好家の心を捉えて離しません。
ディサルリの名演奏に身を委ねれば、古き良きブエノスアイレスの舞踏会へと誘われることでしょう。
タンゴへの愛情と探求心をもって、彼の音楽に耳を傾けてみてください。その中に秘められた情熱とエレガンスに、きっと魅了されるに違いありません。

参考文献・出典
https://en.wikipedia.org/wiki/Carlos_di_Sarli
https://brisbanehouseoftango.com.au/carlos-di-sarli-the-lord-of-tango
https://www.todotango.com/english/history/chronicle/151/Nicknames-in-Tango
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%AA
https://poesiadegotan.com/2009/04/14/nido-gaucho-1942/
https://www.so-tango.com/blog/Tango-History-and-Music/elsenordeltangopart3

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