音楽制作で使うIIRフィルタ入門 — 仕組み・設計・実装と実用上の注意点
IIRフィルタとは何か(概要)
IIR(Infinite Impulse Response、無限インパルス応答)フィルタは、出力に過去の出力サンプルを帰還(フィードバック)して用いるデジタルフィルタの一群です。音響・音楽信号処理の分野では、狭帯域の共鳴(高Q)を比較的少ない計算量で実現できるため、イコライザ、シンセサイザのフィルタ(VCFエミュレーション)、リバーブ前処理やフォームント処理などに幅広く使われます。IIRは理論的に無限長のインパルス応答を持ちますが、実装上は状態量が有限なので効率よく実現できます。
基本的な差分方程式と極・零点の概念
一般的なIIRフィルタは次の差分方程式で表されます(正規化 a0 = 1):
y[n] = b0 x[n] + b1 x[n-1] + ... + bM x[n-M] - a1 y[n-1] - a2 y[n-2] - ... - aN y[n-N].
ここでフィルタの周波数特性は、ゼロ点(分子の多項式の根)と極(分母の多項式の根)によって決まります。極が単位円の内側にあれば安定、外側にあると発散します。特に音楽用途では、ポールを単位円に近づけることで鋭い共鳴(高Q)を得られますが、数値誤差で不安定になる可能性があるため注意が必要です。
IIRとFIRの比較(音楽的観点)
- 計算効率:同等の周波数特性を得るにはIIRの方が低次数で済むことが多く、特にアナログに近いスムーズなレスポンスが必要な場合に有利です。
- 位相特性:IIRは一般に非線形位相(位相歪み)を持ちます。位相の厳密な整合が必要な場合(例:マルチバンド相互位相)にはFIRの方が適しています。
- 実装の安定性:FIRは常に有限応答で安定ですが、IIRは設計と実装に注意が必要です。
アナログプロトタイプとディジタル変換
伝統的な設計手法は、アナログ低域通過/高域通過プロトタイプ(バターワース、チェビシェフI/II、エリプティックなど)を用いて必要な性能を満たすアナログ伝達関数を得てから、それをディジタルに変換する方法です。主な変換手法に以下があります。
- インパルス不変法(Impulse Invariance): アナログインパルス応答をサンプリングしてディジタルに変換しますが、周波数スペクトルの周期性により高域でエイリアシングが生じます。
- 双一次(Bilinear)変換: s平面をz平面へ単射的に写す方法で、エイリアシングは生じませんが周波数ワーピング(非線形な周波数変換)が発生します。設計時にプリワープ(prewarp)で重要な周波数を補正します。形式は s = (2/T) * (1 - z^{-1})/(1 + z^{-1}) です。
バイ・クワッド(2次節)実装—実務での基本単位
実際のオーディオ実装では、高次のIIRは直接形式で実装すると数値的に不安定になるため、2次(あるいは1次)のセクション(ビクアッド、biquad)を直列にカスケードして実装するのが標準的です。二次節の差分方程式は次の形をとります:
y[n] = b0 x[n] + b1 x[n-1] + b2 x[n-2] - a1 y[n-1] - a2 y[n-2].
二次節の極は半径 r と角度 ω0 で表せ、係数は(符号規約に注意)例えば a1 = -2 r cos(ω0), a2 = r^2 と関連します。ここで r はポール半径(0 < r < 1)で、r が単位に近いほど残響的な共鳴が鋭くなります(Q が高い)。ただし符号の取り扱いはライブラリや論文によって異なるため、実装時に差分方程式の符号規約を確認してください。
差分形式:Direct Form I/II と転置形
代表的実装形式として Direct Form I, Direct Form II(DF-II)、およびそれらの転置形(transposed DF-II)があります。DF-II は状態数が少なくメモリ節約になりますが、内部の積和演算で値が飽和したり、固定小数点実装で丸め誤差の影響を受けやすいという欠点があります。転置形は数値安定性が良い場合が多く、実装上よく使われます。高精度が必要な場合は倍精度浮動小数点や適切なスケーリング、またはカスケード毎に正規化を行うべきです。
数値問題と実用的な対策
音声向けIIR実装で注意すべき点:
- ポールの位置と単位円:ポールは厳密に単位円の内側に保つ。係数量子化や時間変動(モジュレーション)で外に出ると発散する。
- 量子化誤差:固定小数点環境では係数や内部状態の量子化で特に高Qフィルタが劣化する。可能なら浮動小数点を使う。
- デノーマル値(very small denormals):小さな内部値がデノーマルになると処理が遅くなることがあるため、デノーマル対策(微小ノイズの注入など)を行うことがある。
- オーバーフロー・クリッピング:計算中の積和が飽和しないようにスケーリングやヘッドルームを保つ。
- モジュレーションによる不安定化:フィルタパラメータ(カットオフ、Qなど)をリアルタイムで変化させる場合、ポールが瞬時に単位円を越えないように安全マージンを設ける。またスムージングを使う。
音楽的応用例と設計上のコツ
イコライザ(パラメトリックEQ):RBJのAudio EQ Cookbook(Bristow-Johnson)は、ビクアッド設計の実用式を提供しており、音楽制作で広く参照されています。パラメトリックEQは複数のビクアッドを用いてピーク(ベル)、ローシェルフ、ハイシェルフ、ローパス、ハイパスを構成します。
シンセサイザのフィルタ:アナログVCAやVCFをエミュレートする場合、IIRのバターワースやチェビシェフは良い出発点です。非線形性(飽和やクリッピング)を加えることでよりアナログらしい音色を得られますが、これによりハーモニクスが増え、エイリアシングや数値問題が起きやすくなるため、オーバーサンプリングやアンチエイリアス処理が必要になることがあります。
フォームント・ボイス処理:複数の高Q帯域通過フィルタ(IIR)を適切に配置して声のフォームントを作るのは効率的な方法です。フォルマント周波数は時間的に変化させる必要があるため、安定性に配慮してパラメータを滑らかに変化させます。
時間変化フィルタ(モジュレーション)の実装上の注意
周波数をオートメーションやLFOで動かす場合、パラメータの更新レートとスムージングが重要です。パラメータをサンプル単位で直接書き換えると不連続が入り、プチノイズやクリックを生じることがあります。線形補間や1次/2次のポリフィルタで滑らかに遷移させると良いでしょう。さらに、Qを高める操作を行う際は、ポールが瞬時にユニットサークルを越えないようにチェックを入れる実装が望ましいです。
周波数ワーピングとプリワープの実務式
双一次変換を用いる場合、設計時にデジタルでの目的カットオフ周波数 ω_d(ラジアン/サンプル)に対してアナログ周波数 Ω_a をプリワープします。関係式は一般に Ω_a = (2/T) * tan(ω_d/2)(T はサンプリング周期)です。これにより双一次変換後に目的周波数が正確に一致するよう補正します。
実装例(概念的なコード)
二次節のリアルタイム更新は次の差分方程式を用います(符号規約に注意):
y[n] = b0*x[n] + b1*x[n-1] + b2*x[n-2] - a1*y[n-1] - a2*y[n-2].
各サンプルごとに遅延バッファをシフトし、上式を評価します。多くのライブラリはこの処理を最適化しており、SIMDやベクトル命令で高速化できます。
実用的なチェックリスト(音楽制作エンジニア向け)
- 目的が位相線形性ならFIRを選ぶ。
- 低レイテンシーで高Qが必要ならIIR(ビクアッドカスケード)を優先。
- 実装は転置DF-IIが数値安定性に優れる場合が多い。
- 固定小数点環境ではスケール、量子化、オーバーフロー対策を入念に行う。
- パラメータのリアルタイム更新はスムージングしてクリックを防ぐ。
- エイリアシングを抑えたい場合はオーバーサンプリングを検討。
まとめ
IIRフィルタは音楽・音響アプリケーションにおいて、計算効率とアナログに近い響きを両立できる強力なツールです。一方で位相歪みや数値的不安定性、モジュレーション時の注意点など実務的な落とし穴もあります。ビクアッドを基本単位とする実装や双一次変換+プリワープによる設計、数値安定化のための転置形式・スケーリングといった実践テクニックを押さえれば、安全で高音質なIIRフィルタを構築できます。
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参考文献
- Julius O. Smith III, Digital Filters (CCRMA)
- Steven W. Smith, The Scientist and Engineer's Guide to Digital Signal Processing
- R. Bristow-Johnson, Audio EQ Cookbook
- Bilinear transform — Wikipedia
- DAFX: Digital Audio Effects(関連文献概要)
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