バッハ BWV552(聖アン)徹底解説:作曲背景・形式・演奏のポイントと名演ガイド
はじめに — BWV 552 の位置づけ
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV 552」は、オルガン作品の中でも最も雄大で象徴的な一つです。本作はバッハ自身による鍵盤音楽集『Clavier-Übung III(クリャヴィア・ユーブング第3巻)』の最終曲として1739年に刊行され、組曲全体を荘厳に締めくくる役割を担っています。通称『聖アン(St. Anne)』は、前奏曲冒頭の旋律が英語の讃美歌旋律「St. Anne」に似ていることに由来しますが、原題やバッハの自署にそのニックネームはありません。本稿では作品の歴史的背景、音楽的構造、解釈と演奏上の留意点、さらには代表的な録音・参考資料までを詳しく掘り下げます。
刊行の歴史と宗教的文脈
BWV 552 は『Clavier-Übung III』の一部として1739年に出版されました。この全集はルター派のカテキズムと教会暦に基づくコラール前奏曲を中心に据え、オルガン音楽の典礼的・教育的側面を強調する意図で編纂されています。第3巻の最終曲がこの大規模な前奏曲とフーガであることは、曲が単なる技巧披露ではなく、全体の神学的・象徴的結語を意図している可能性を示唆します。学術的には、3声・多声の扱い、三位一体(父・子・聖霊)を想起させる三つの主題を持つフーガ構造などが、宗教的象徴と結び付けて論じられることが多いです(解釈の一例に過ぎず、バッハ自身の明言はありません)。
「聖アン(St. Anne)」という呼称について
このニックネームは歴史的に後世に付けられたものであり、前奏曲冒頭の主題のリズムおよび輪郭が、英語の讃美歌旋律「St. Anne」(伝統的にウィリアム・クロフト〈William Croft, 1678–1727〉に帰せられる)と類似しているために生まれました。あくまで類似性に基づく便宜上の呼称であり、バッハ自身が意図した直接的な引用であるという確証はありません。ただし、この呼び名が広く定着したため、楽曲紹介や演奏会のプログラムでは今日でもよく用いられています。
前奏曲(プレリュード)の音楽的特徴
前奏曲は変ホ長調で、荘厳かつ堂々とした音響を持ちます。冒頭はドット付きのリズムや重厚な和音進行により、フランス風序曲(オーヴェルトゥール)の趣を帯びています。主題は対位法的にも取り扱われ、両手とペダルを用いた多声的なテクスチャが展開されます。中間部では流れるような分散和音や模倣進行が入り、全体としてはコントラストを持たせつつも統一感を失わない設計になっています。
楽曲の構成は厳密なソナタ形式ではなく、複数の断片的エピソードが有機的に繋がる形です。和声感は豊かで、変ホ長調の属調や平行調への遠隔的な動きなどを経て、栄光に満ちた終結へ向かいます。前奏曲の音響的な重厚さは、当時の大型パイプオルガンの鳴りを想定したものであり、登録(ストップの選択)やタッチによるダイナミクス表現が重要となります。
フーガ(フーガ)の構造 — 三重主題(トリプル・フーガ)
BWV 552 のフーガは、特筆すべき「三重主題(トリプル・フーガ)」です。まず第一主題が提示され、続いて第二主題、さらに第三主題が導入されます。各主題は独立して展開され、その後、作曲技術の妙として三つの主題が組合わされて同時に扱われます。このような多主題フーガはバッハの対位法の成熟を示すもので、各主題間の対位関係、転調処理、模倣の技巧が冴えわたります。
三重主題の扱いによって曲は高度な論理性と劇的な頂点を得ます。終盤で三主題が完全に統合される瞬間は、聴衆に知的な満足と宗教的・叙事詩的な荘厳さの両方を提供します。フーガの終止部はしばしば力強いホモフォニックな和音で締め括られ、前奏曲と合わせて大きなカーテンコールのような効果を生み出します。
演奏と演奏上の留意点
BWV 552 を演奏する際の主要な課題は、対位法の明晰さと音響のバランスを両立させることです。大型バロックオルガンでの演奏では、重厚な主和音を響かせつつも、フーガ主題の入れ替わりや対旋律を明瞭に提示するための登録選択が重要です。手鍵盤(マニュアル)と足鍵盤(ペダル)の役割分担を明確にし、特に三重フーガでは各声部の輪郭を失わないように注意します。
歴史的奏法に敏感な演奏家は、バロック時代の装飾やアーティキュレーション、テンポ設定に配慮しますが、同時に作品の『荘厳さ』を損なわない範囲で現代楽器の可能性を生かすことも許容されます。録音やリサイタルでは、空間(教会の残響)とオルガンの音色が作品の印象を大きく左右します。小規模の楽器では書法の精巧さが強調され、大型楽器では圧倒的なスケール感が前面に出ます。
楽譜と版について
BWV 552 は原典版(バッハの自筆譜と1739年の刊行譜)を底本にした校訂版が複数存在します。演奏者は信頼できる原典版や学術版(例えばBärenreiter や Henle といった出版社の校訂版)を参照することが望ましいです。また IMSLP などで公開されている史料を対照することで、装飾記号や小節割り、ペダル指示などの異同を確認できます。
代表的な録音と解釈の違い
20世紀以降、多くの著名オルガニストが本曲を録音してきました。ヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha)はバッハ鍵盤作品の解釈で高く評価され、厳格で明晰な対位法表現が特徴です。マリー=クレール・アラン(Marie-Claire Alain)は色彩豊かな登録と流麗なフレージングで知られています。E. Power Biggs は20世紀のオルガン復興運動を牽引し、大型ロマン派や歴史的オルガン両方での録音を通じて広く一般に曲の魅力を伝えました。現代の歴史的演奏運動に基づく演奏家(Ton Koopman、Andreas Staier 等)の録音は、古楽の奏法やオルガン音響への配慮が反映されています。
作品の意義と聴取のすすめ
BWV 552 は単なる技巧的な見せ場を超え、バッハの宗教観や音楽哲学が凝縮された大作と評価できます。前奏曲の荘厳さ、フーガの構成的完成度、そして全体を貫く統一感は、聴き手に深い感銘を与えます。初めて聴く場合は、まず大きな教会の残響を想像しながら、冒頭のリズムと主題の輪郭を追い、フーガで三主題が重なり合う瞬間に集中すると作品の構造的美しさが理解しやすくなります。
まとめ
バッハの「前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV 552(聖アン)」は、Clavier-Übung III を締めくくるにふさわしい壮麗な作品であり、対位法、和声、儀礼的意味の三拍子が高水準で融合しています。演奏・聴取の双方において、歴史的背景と楽曲構造を知ることが理解を深める鍵となります。本稿が、演奏家や聴衆がこの名曲に向き合う際の一助となれば幸いです。
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参考文献
- IMSLP: Prelude and Fugue in E-flat major, BWV 552(楽譜)
- Wikipedia: Prelude and Fugue in E-flat major, BWV 552
- Wikipedia: Clavier-Übung III
- Wikipedia: William Croft(讃美歌「St Anne」の帰属に関する情報)
- Bach Digital(作曲資料と作品目録)
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