ベラ・ルゴシ — 吸血鬼ドラキュラを作り出した男の生涯とレガシー

イントロダクション:なぜベラ・ルゴシはいまも語られるのか

ベラ・ルゴシ(Béla Lugosi, 1882–1956)は、映画史における〈ドラキュラ像〉を決定づけた俳優として知られる。彼の重厚な東欧アクセント、黒いマント、静かな視線は、吸血鬼イメージの原型となり、20世紀のポピュラー文化に深く根を下ろした。本稿では、出自と舞台時代、1931年の映画『ドラキュラ』でのブレイク、その後の栄光と挫折、晩年の活動、そして現代における評価までを、事実に基づいて掘り下げる。

生い立ちと演劇修行:出自が刻んだ運命

ベラ・ルゴシは1882年10月20日、当時オーストリア=ハンガリー帝国のルゴシュ(現ルゴイ、ルーマニア)でベーラ・フェレンツ・デジェ(Béla Ferenc Dezső Blaskó)として生まれた。地名から取った舞台名「ルゴシ」を用い、ハンガリー語圏で俳優としてのキャリアを積んだ。第一次世界大戦を挟んだ動乱期に舞台・映画で経験を重ね、卓越した声と存在感を武器に活動したことが、後の英語劇・映画進出の基盤となる。

アメリカ上陸とブロードウェイ:『ドラキュラ』との出会い

第一次世界大戦後、ルゴシはアメリカへ渡り、1920年代に英語圏での活動を開始する。1927年、イギリスの舞台版を基にしたアメリカの舞台『ドラキュラ』に主演し、エレガントで畏怖を誘う吸血鬼像を確立した。舞台版での成功は彼を国際的な注目へと押し上げ、やがてハリウッドの映画出演へとつながる。

1931年『ドラキュラ』:一つの演出が文化を変えた

1931年、トッド・ブラウニング監督の『ドラキュラ(Dracula)』でルゴシは映画のカウント・ドラキュラを演じ、大衆的な名声を得た。舞台で培った抑制された演技、低く柔らかい声の使い方、古風で威厳ある身のこなしは、吸血鬼像のアイコニックな要素となった。特に黒いマントで相手を覆うような仕草や、半笑いで相手を魅了する様子は、この映画を通して世界中に広まった。

初期映画と代表作の特徴

映画初期のルゴシは、『ドラキュラ』以降もホラー系作品を中心に活動した。1932年の『ワイト・ゾンビ(White Zombie)』は、長らく“最初期の長編ゾンビ映画”の一つとして評価されており、ルゴシは集団暗示や白魔術の役どころで強烈な印象を残した。1930年代は同時代の怪奇映画スター、ボリス・カーロフと共演することも多く、二人の共演作が怪奇映画の黄金期を形作った。

タイプキャストとキャリアの変遷

ルゴシは『ドラキュラ』の成功によって強く型にはめられ、東欧的な風貌とアクセントゆえに魅力的な悪役や怪奇的な人物に繰り返し起用されるようになった。このタイプキャストは短期的には仕事をもたらしたが、俳優としての幅を狭め、社会的評価や報酬面での限界を生む一因ともなった。

再評価と役柄の幅:Ygorと晩年の役どころ

1939年の『フランケンシュタインの息子(Son of Frankenstein)』で演じた“イゴール(Ygor)”は、ルゴシのキャリアを一時的に再活性化させた。威厳ある貴族や吸血鬼だけでなく、独特の影を持つ脇役としての力量も示したが、依然として大作主演への道は開かれなかった。1940年代以降は予算の小さいB級映画や低予算プロダクションでの出演が増え、舞台での仕事やテレビ出演を含めて細々と活動を続けた。

私生活と健康問題:薬物と経済的困窮

晩年のルゴシは健康問題と薬物依存に悩まされた。慢性的な痛みや不眠を理由に鎮痛薬を常用し、これが演技や公私の生活に悪影響を及ぼしたと伝えられる。また、映画界での高位から外されることで経済的にも厳しい状況に陥り、収入確保のために安価な仕事やナイトクラブ的な出演を受けざるを得ない時期があった。

エド・ウッドとの関係:晩年の盟友と新たな伝説

1950年代にはカルト映画監督エド・ウッドと協働し、1955年の『怪物の花嫁(Bride of the Monster)』などに出演した。ウッド作品は興行的成功とは無縁だったが、後年に再評価され「最低のカルト映画」としての魅力を獲得する中で、ルゴシの晩年の姿も新たな神話の対象となった。ウッドの映画はルゴシのキャリア終盤を象徴する出来事であり、結果的に彼の“悲劇的英雄”としてのイメージを強めた。

死と死後の評価

ベラ・ルゴシは1956年8月16日、ロサンゼルスで心臓の疾患により亡くなった(享年73)。死後、ルゴシのドラキュラ像は数多くのメディアで引用・模倣され、映画、テレビ、漫画、コスプレ文化に至るまで幅広く影響を与えた。また、吸血鬼の演出に関する多くの“常識”――マント、半笑い、東欧的な雰囲気――がルゴシの演技に由来することは、映画史研究でも広く認められている。

神話と誤解:ルゴシとカーロフの関係、薬物伝説の実像

ルゴシとボリス・カーロフの確執や、ルゴシの薬物依存に関する逸話は数多く語られるが、誇張された部分も少なくない。二人は確かに競争関係にあったが、完全な敵対関係という見立ては一面的だ。薬物に関しても、晩年の鎮痛薬常用は事実だが、それが全ての言動や演技力低下の唯一の原因と断じるのは単純化である。背景にはタイプキャスト、映画産業の構造変化、年齢による役の幅の縮小といった複合的要因がある。

文化的影響と現代への継承

ルゴシの最も大きな遺産は、吸血鬼というフィクションの“顔”を世界に定着させたことだ。彼のドラキュラ像は後続の吸血鬼描写—文学、映画、テレビ、ゲーム—に継承され、吸血鬼というモチーフのポピュラーイメージ形成に決定的な役割を果たした。また、B級映画やカルト文化の文脈で再発見されたことで、ルゴシ自身が象徴的な存在となり、アカデミックな映画史研究のみならずサブカルチャーでも重要視されている。

まとめ:名声の光と影を超えて見えるもの

ベラ・ルゴシは、単なる“ホラー俳優”の域を越えた存在である。舞台で磨いた抑制された技術、映画という新しいメディアで刻み込まれたイメージ、そして晩年の苦難とカルト的再評価――これらすべてが複合して、彼を20世紀の文化的アイコンへと押し上げた。ルゴシを理解することは、ハリウッドのスターダムの仕組み、タイプキャストの功罪、そして大衆文化におけるイメージ形成の過程を読むことでもある。

参考文献