バッハ BWV125「平安と喜びもてわれは逝く」―典礼・詩作・音楽表現の深層を聴く
はじめに
ヨハン・セバスチャン・バッハのカンタータ BWV125「Mit Fried und Freud ich fahr dahin」(日本語題:平安と喜びもてわれは逝く)は、ルター派の信仰告白と聖書のニム・ディミティス(Nunc dimittis)に根ざした深い宗教感情を、巧緻な対位法と親しみやすい旋律で描き出す作品です。本コラムでは、作曲背景、テクストの由来と神学的意味、楽曲構造と音楽的特徴、演奏史・録音の注目点までを詳しく掘り下げ、聴きどころと理解の手がかりを提示します。
歴史的・典礼的背景
BWV125は、バッハがライプツィヒで作曲した「コラール・カンタータ」群の一作で、一般的に1725年の「顕現後(Epiphany)」期に属するライプツィヒの典礼において、奉献祭(聖母の奉献、またはキャンドルマス/2月2日)に捧げられたとされます。バッハは1724–25年ごろに進めたコラール・カンタータ循環の中で、ルター派の伝統的な賛歌を素材に、典礼のテキストとその信仰的意味に即した音楽作品を次々と生み出しました。
本作のテキストは、マルティン・ルターが聖歌として作った賛歌「Mit Fried und Freud ich fahr dahin」に基づきます。この賛歌自体はルターによる〈Nunc dimittis〉(ルカによる福音書2章29–32節、老年のシメオンの祈り)のドイツ語化・詩的再解釈であり、死生観と救済の確信を短く力強く表現しています。バッハはこのコラールを素材に、第1節と第6節(終曲)を合唱で据え、中央の節を詩人が自由詩へと置き換えた形でアリアやレチタティーヴォに展開しています。
テキストと神学的主題
ルターの賛歌は、シメオンの「主よ、御身のしもべを平安にお鬱させたまえ」(Nunc dimittis)という解放と安穏の告白を、個人の信仰体験として歌います。そこで重要なのは「平安(Fried)」と「喜び(Freud)」という、死を恐れないキリスト者の確信です。バッハはこの感情を音楽的に様々な手段で具現化します:安らぎを示す穏やかな和声進行、喜びを示すリズミカルな対位、そして最後に合唱で明確に歌われる賛歌旋律による総合的な肯定です。
楽曲構造(概略)
- 全体は典型的な6楽章構成をとることが多く、開幕のコラール・ファンタジー、数個のアリアとレチタティーヴォを挟んで終曲のコラール合唱へ戻るという形式が採られています。
- 冒頭合唱は賛歌の第1節を基にした大型のコラール・ファンタジーで、合唱と器楽が織りなすポリフォニーとコラール旋律(カントゥス・フィルムス)との対話により、テキストの主題を壮麗に提示します。
- 中間部では詩人により第2~5節が自由詩に換えられ、アリアやレチタティーヴォを通して個人的な内面告白や解釈が展開されます。これにより典礼的普遍性と個人的信仰の両面がバランスよく表現されます。
- 閉幕合唱は第6節の四声コラールで、賛歌旋律の明確なハーモナイゼーションにより、作品全体の神学的結論(安らぎと希望)を締めくくります。
音楽的特徴と表現技法
バッハはここで数々の象徴的・技法的手法を用いて、テキストの意味を音楽へ翻訳します。以下に主な点を挙げます。
- コラール・ファンタジーの構築:冒頭で賛歌旋律を固定した上で、上下で複雑な対位を展開する手法は、バッハのコラール・カンタータに共通するものです。旋律が合唱のどの声部に担われるか、器楽がどのようなモティーフを付与するかによって、テキストの語尾や語意に色彩が付けられます。
- 語句描写(ワードペインティング):例えば「平安」「喜び」といった語には明るい長調の和音進行や跳躍、安定した終止が伴い、「死」や「逝く」といった語句には下降音形や一時的な緊張和音が使われる傾向があります。バッハはこうした象徴的表現を自然に織り交ぜます。
- 対位法と和声の統合:コラールの旋律がハーモニーの中心に据えられる一方で、器楽線や対位主題が自由に動き回り、各声部が独立しつつも全体で一つの宗教的メッセージを形作ります。
- レチタティーヴォの扱い:語り的部分(レチタティーヴォ)では時にリトルネロや器楽の伴奏が入り、個人的な告白のリアリティを高める工夫が見られます。
演奏上の注意点と解釈の幅
BWV125は、演奏者・指揮者によって表現の幅が大きく変わる作品です。古楽器編成での演奏は透明感とバロック的アフェクトを前面に出す一方、近代的な大編成で演奏するとより宗教的荘厳さが強調されます。主な注意点は以下の通りです。
- テンポ設定:合唱冒頭は雄弁にして落ち着いたテンポが本来の平安を伝えますが、内部のアリアでは適切なテンポ変化により「喜び」や「内省」を対比的に描けます。
- テキスト理解の優先:バッハのカンタータでは常に言葉が中心です。発声・アーティキュレーションはテキストの明晰さを損なわないことが重要です。
- 器楽のバランス:コラールのカントゥス・フィルムスを担う声部と器楽との役割分担を明確にし、旋律が埋没しないようバランスを取ります。
録音と演奏史のハイライト
20世紀以降、BWV125は多くの指揮者・合唱団によって録音されてきました。演奏スタイルは「エンジンオブ・リバイバル(歴史的演奏法)」の影響を受けた小編成の解釈から、戦後の大規模宗教曲的解釈まで幅があります。代表的な録音としては、ジョン・エリオット・ガーディナー(英バロック奏法に基づく演奏)、鈴木雅明(Bach Collegium Japan)の精緻で歌詞重視の演奏、トン・コープマン(アムステルダム・バロック・オーケストラ)などが挙げられます。各録音はテンポ、音色、声部配置の違いが明瞭で、聴き比べることで作品の多層性がより深く理解できます。
聴きどころガイド
- 第1楽章(コラール・ファンタジー):賛歌旋律がどの声部で歌われているか、器楽がどのように動機的素材を与えているかに注目してください。全体のアーキテクチャが神学的メッセージをどう支えているかが見えてきます。
- 中間のアリア/レチタティーヴォ:詩人による自由詩の部分では、個人の信仰告白が細やかに描かれます。テキストの語尾処理や音楽的強調点に耳を傾けると、バッハの語り口が理解しやすくなります。
- 終曲(四声コラール):宗教的確信が四声ハーモニーで落ち着いて確認されます。和声の結び目や終止形に込められた慰めの表現を味わってください。
今日における意義
BWV125は、死と救済、個人的信仰と共同体的典礼といった永遠のテーマを、16世紀ルターの賛歌と18世紀バッハの音楽技法という二つの時代の言語で結びつけた作品です。宗教曲という枠を超え、音楽表現の普遍性が聴き手の生きる力や慰めに繋がる点で、現代にも深い共感を呼び起こします。
エバープレイの中古レコード通販ショップ
エバープレイでは中古レコードのオンライン販売を行っております。
是非一度ご覧ください。

また、レコードの宅配買取も行っております。
ダンボールにレコードを詰めて宅配業者を待つだけで簡単にレコードが売れちゃいます。
是非ご利用ください。
https://everplay.jp/delivery
参考文献
- Wikipedia(日本語): BWV 125
- Wikipedia(英語): Mit Fried und Freud ich fahr dahin (BWV 125)
- Bach Cantatas Website: BWV125
- IMSLP: Score of BWV125
- Bach Digital (総合データベース): https://www.bach-digital.de/
投稿者プロフィール
最新の投稿
ビジネス2025.12.29版権料とは何か|種類・算定・契約の実務と税務リスクまで徹底解説
ビジネス2025.12.29使用料(ロイヤリティ)完全ガイド:種類・算定・契約・税務まで実務で使えるポイント
ビジネス2025.12.29事業者が知っておくべき「著作権利用料」の全体像と実務対応法
ビジネス2025.12.29ビジネスで押さえるべき「著作権使用料」の全知識――種類、算定、契約、税務、リスク対策まで

