バッハBWV508–518:『アンナ・マグダレーナの音楽帳』の歌曲群を読み解く

はじめに — 小さな冊子に宿る大きな世界

『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』(Notebook for Anna Magdalena Bach)は、18世紀の家庭音楽文化を今に伝える貴重な写本です。一般に「音楽帳」と呼ばれるこの冊子には、鍵盤曲やミヌエット、アリアや歌曲などが収められており、バッハ家の日常的な音楽実践の一端を知ることができます。作品番号BWV 508–518は、その中に含まれるいわゆる「歌曲群」に対応します。しかしこれらの曲は、必ずしもヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)自身の自作とは限らず、写本の起源や帰属、演奏法をめぐって長年にわたる研究が蓄積されています。本稿ではBWV508–518を軸に、由来、音楽的特徴、演奏・研究上のポイントを詳しく解説します。

『アンナ・マグダレーナの音楽帳』の成立と性格

アンナ・マグダレーナはバッハの2番目の妻で、彼女のために作られた(あるいは彼女自身が編んだ)二冊の音楽帳が知られています。一般に1722年と1725年の成立とされる二冊には、家庭での歌と鍵盤の実用曲が混在しており、作曲者はバッハ一族のみならず同時代の友人・同僚・出版曲からの採録が多く見られます。したがって冊子はプロの公開用作品集というよりも、家庭で歌い弾くための実用的レパートリー集と理解するのが適切です。

BWV 508–518:歌曲群の概要と帰属問題

カタログ上BWV508–518は『アンナ・マグダレーナの音楽帳』に収められる歌曲に割り振られた番号群です。重要な点は、これらの曲の多くが匿名で写されている、あるいは写本以外の自筆収録資料が存在しないため、作曲者の帰属が不明確であることです。学界では、次の二点が共通の認識となっています。

  • これらの歌曲の一部はバッハ自身の作品ではなく、当時の他作曲家(家族・友人を含む)のものをアンナ・マグダレーナや家族が採録した可能性が高い。
  • 番号はBWV目録編纂上の便宜によるものであり、必ずしも作曲者やジャンルでの厳密な分類を反映しない。

代表例としてBWV 508「Bist du bei mir」は、かつてバッハ作品として広く扱われましたが、現在ではゴットフリート・ハインリヒ・シュテールツェル(G. H. Stölzel)の作品であるとする説が定着しています。写本に収められていたことから長らくバッハ縁の曲として親しまれましたが、原曲の出典が別に見つかったため作曲帰属が訂正されました。

BWV 508「Bist du bei mir」— 代表的事例の詳細

「Bist du bei mir」はアンナ・マグダレーナの音楽帳を通じて広く知られるようになった歌曲で、家庭の愛唱曲としての地位を築きました。今日では原作者がシュテールツェルであることが示唆され、音楽学的にも編曲や写本過程を追跡する典型例になっています。曲は簡潔で歌いやすい旋律線と通奏低音/鍵盤伴奏に馴染む和声進行を特徴とし、声楽レッスンや家庭のアリアとしての役割を担っていました。演奏に際してはアーティキュレーション、装飾、テキストの語りかたが重要で、当時のドイツ語歌曲の語法を踏まえた解釈が求められます。

楽曲の音楽的特徴 — 家庭音楽に合った簡潔さ

BWV508–518に共通する特徴として、次の点が挙げられます。

  • メロディは明瞭で歌いやすく、反復や短いフレーズによる設計が多い。
  • 和声はバロックの機能和声を踏襲しつつ過度に複雑でないため、伴奏者(家庭のチェンバロやクラヴィコード奏者)にとって扱いやすい。
  • 形式は通奏低音に基づく簡単な伴奏付きの歌曲や、鍵盤独奏への編曲形態など多様である。
  • テクストは宗教的/世俗的が混在し、宗教感情に根差したアリアもあれば恋愛詩や教訓的な歌も含まれる。

これらはすべて、音楽帳が家庭での実用性を第一に編まれていることの証左です。

演奏と編曲の実践 — 歴史的演奏の観点から

演奏上のポイントは二つあります。ひとつはオーセンティックな奏法の採用、もうひとつは編曲・編曲伝承の尊重です。鍵盤伴奏つき歌曲として歌う場合は、通奏低音の簡潔なリアリゼーションや、ヴィブラートを控えた発声、装飾の適切な付加などが推奨されます。鍵盤ソロとして取り上げられることも多く、チェンバロやフォルテピアノでの演奏では原写本のテクスチャーを忠実に再現することが大切です。また、近年はこれらの歌曲を声楽+室内楽で再構成する試みもあり、多様な編成で当時の家庭的な響きを再現しようとする演奏が増えています。

研究史と版の事情

研究面では、写本の筆跡学、紙やインクの分析、テキストの一致・相違を基にした出典研究が行われてきました。BWV番号での扱いは便宜上のもので、Neue Bach-Ausgabe(新バッハ全集)やBach Digitalのようなオンライン資源、さらにはIMSLPでの公開スコアを手がかりに各曲の来歴を調べることができます。現代の演奏譜や会話的研究を利用する際には、収載版の注記(帰属の有無、写本出典)を必ず確認することが重要です。

現代への受容 — 小品の強い生命力

BWV508–518は演奏会のアンコールや録音のレパートリーとして根強い人気があります。なかでも「Bist du bei mir」は宗教的な慰めの表現として結婚式や追悼の場でも定番となっています。さらに、これらの小品群はバッハ研究・教育の入り口としても機能し、声楽や鍵盤の基礎教育、歴史的演奏法の学習教材として広く用いられています。

まとめ — 家庭音楽としての意義と研究の余地

BWV508–518に含まれる歌曲群は、『アンナ・マグダレーナの音楽帳』という写本の性格を如実に示す資料です。これらの作品を通じて当時の家庭音楽の実情、楽曲の流通、そして作曲者帰属の問題が浮き彫りになります。音楽学的には出典研究や版の検討が継続的に必要であり、演奏の世界でも歴史的実践と現代的解釈のバランスをとる試みが今後も続くでしょう。

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参考文献

  • IMSLP: Notebook for Anna Magdalena Bach — 収載曲のスコアや写本画像が参照できる主要な無料リポジトリ。
  • Bach Digital — バッハ資料のデジタル・ライブラリ。写本・版の来歴や注記が確認できる(個別作品ページを参照)。
  • Bach-Cantatas.com — 『Bist du bei mir』などアンナ・マグダレーナ曲に関する解説や出典情報が整理されている。
  • Bärenreiter / Neue Bach-Ausgabe — 新バッハ全集(Neue Bach-Ausgabe)や学術版の参照先。版を用いる際の基本的な情報源。
  • Oxford Music Online / Grove Music Online — バッハと同時代作曲家、および歌曲の歴史的背景に関する総覧(有料)。