バッハ:BWV 919『幻想曲 ハ短調』を深掘りする — 構造・演奏・歴史的背景と実践的ガイド

序文 — 小品に宿る即興性と深さ

J.S.バッハの鍵盤曲には大規模な作品群の陰に隠れがちな小品が多く存在します。BWV 919『幻想曲(Fantasia) ハ短調』もその一つで、短いながらも即興的な性格と濃密な和声感覚を備え、演奏家・聴衆の双方に強い印象を残します。本稿では史的背景、楽譜系譜、楽曲の構造と特徴、演奏上のポイント、現代的な解釈のあり方までをできるだけ詳しく検証・解説します。

史的背景と出典(写本・版)

BWV 919 はバッハの鍵盤小品群に属する幻想曲で、現存する写本に基づいて伝わっています。バッハの鍵盤作品は複数の写譜本(家族や弟子のためのクレアト、クラヴィーアビュッヒラインなど)を通じて伝承されたため、成立年代や当初の楽器に関しては必ずしも一本化された見解があるわけではありません。したがって BWV 919 の成立時期を特定する明確な一次資料は限られますが、曲想や筆法からは青年期から中期にかけての鍵盤即興的技法との関連がうかがえます。

現代の校訂・スコアは複数存在し、総譜出典の差異を反映して音符や装飾法の扱いがわずかに異なることがあります。演奏や研究の際は、信頼できる校訂(学術版や原典版)と、写本の照合を行うことが望まれます。

楽曲の配置と版的扱い

  • ジャンル:鍵盤のための幻想曲(Fantasia)。
  • 調性:ハ短調(C minor)。短い単一楽章で、通奏的な即興性を持つ。
  • 楽器:原則としてチェンバロやクラヴィコードを想定した鍵盤曲。現代ではピアノ演奏も一般的。
  • 出典:複数写本を通じて伝承。校訂版により装飾・連桁・指示の有無が異なるので注意が必要。

楽曲構造と音楽分析

BWV 919 は一般的なソナタ形式やフーガのような厳格な対位法的構造ではなく、むしろ即興的で自由な継起(succession)を特徴とします。以下は楽曲を理解するための主要な着目点です。

1) 形式と大まかな区分

曲は通奏的な展開を示し、明確な反復やコーダを伴わないことが多いです。冒頭から主題的な素材(アルペッジョ的な和声の分散、右手の装飾的な動機)が提示され、それが様々な調域・テクスチャで展開されます。中間部では転調や和声的な拡張が生じ、最後に冒頭の素材を想起させる形で終結に向かいます。

2) 主題素材と動機的処理

主題は典型的なバッハ的短調の特徴――第6音・第7音の扱い、属和音への強い導入線、短調の対比的長調挿入など――を含みます。音形としては分散和音(broken chords)やスケール的上行・下行が多用され、即興的なパッセージワークが続きます。バッハは短い動機を断片的に連結・反復することで一見自由な語りを統一しています。

3) 和声と転調

ハ短調を拠り所にしつつ、短い曲の中で相対長調やドミナント、平行短調への迅速な移行が見られます。バッハ特有の代理解決や二次調性(例:属調の属調)を用いて、短い時間で強い和声的張力と解放を作り出します。部分的に半音階的な動きや和声的な挿入(chromaticism)が用いられることによって、幻想曲らしい不確定性と表情の幅が増します。

4) 対位法的要素

幻想曲といえども、バッハは対位的思考を完全には捨てていません。短いスケールでの模倣、内声の独立した動き、左手と右手の呼応といった対位的処理が曲全体に散見され、即興的でありながら音楽的な論理性を支えています。

演奏上の実践的ポイント

この曲を演奏する際に重要な観点を、チェンバロ/クラヴィコードとピアノの両面から示します。

1) 楽器によるアプローチの違い

  • チェンバロ:音の減衰が早いため、音価の精確さ、アーティキュレーション、装飾の明瞭さを重視します。フレージングは明確に、アゴーギクは控えめに。装飾音(トリルや装飾符)の伝統的解釈を踏まえることが重要です。
  • ピアノ:持続と色彩の幅が広いため、レガートやダイナミクスで表情をつける余地があります。ただし過度なペダリングは和声の輪郭を曖昧にするので注意。原典にない強いルバートや過剰なロマンティック表現は慎重に扱うべきです。

2) テクニックと指使い

分散和音や速いパッセージでは、均等なタッチと指使いの工夫が求められます。写譜によっては連桁(beam)や指示が不十分な場合があるため、自身の手に合った指使いを事前に精査し、旋律線の輪郭を明確に保つ練習が必要です。

3) 装飾と解釈

装飾音やフェルマータ的な箇所は、バロック当時の慣習を参考にしつつ、曲の語り(phrasing)に合わせて自然に配置します。過度な即興的付加は曲の均衡を崩すため、原典に忠実な箇所と演奏者の個性を両立させる判断が求められます。

校訂と版の選択

演奏や稿を作成する際は、必ず原典版(原資料に基づく校訂)を優先することを推奨します。近現代の編集者によるフィンガリングやイタリック注釈は参考になりますが、原写本の読みの相違によって解釈が分かれる箇所があるため、複数版を照合することが望ましいです。

解釈の諸相 — 即興性と構成感の均衡

幻想曲というジャンルは「即興的であること」を宿命づけられていますが、バッハの場合は即興の風合いと緻密な構成性が共存します。演奏者は即興的に語る自由さを活かしつつ、内在するモティーフや和声進行の論理を忘れずに音楽を統御する必要があります。短い作品だからこそ、細部の緊張と解放が曲全体の印象を左右します。

実践的な学習手順(練習プラン)

  • 第1段階:原典スコアを読み、全体の形(小節ごとの流れ、転調点)を把握する。
  • 第2段階:右手・左手を別々に練習し、和声の輪郭と内声の動きを確認する。
  • 第3段階:装飾音やテンポ処理を決定し、チェンバロ的発音とピアノ的表現の違いを意識して試す。
  • 第4段階:テンポを定め通し演奏し、その録音を聴いてフレーズの整合性をチェックする。
  • 第5段階:解釈的選択(ルバート量、強弱の幅、デクレッシェンド/インクレッシェンドの箇所)を最終的に固定する。

現代における受容と活用

BWV 919 のような小品は、コンサートの前半やアンコール曲としても重宝されます。また教育的にも、バッハの和声観や即興性を学ぶのに適した教材です。チェンバロのレパートリーとしても、またピアノでバロック的な語法を学ぶ上でも価値が高いでしょう。

録音・資料の探し方

信頼できる楽譜や写本の画像、さらには比較版を確認するにはオンラインの学術的資源が便利です。録音ではチェンバロ演奏とモダンピアノ演奏とで音色や解釈が大きく異なるため、複数の録音を比較して自分の解釈を磨くことを勧めます。

まとめ

BWV 919『幻想曲 ハ短調』は短いながらもバッハの音楽観が凝縮された作品です。即興的な自由さと厳密な和声・対位法的処理が同居しており、演奏者には古典的な慣習の理解と個人的表現のバランスが求められます。入念なスコア研究と多様な録音比較を通じて、作品の持つ奥行きを引き出していってください。

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参考文献