バッハ BWV987(協奏曲第16番 ニ短調)――写弾曲群の最後に位置する深層解読と演奏ガイド
はじめに — BWV987とは何か
BWV987 は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがチェンバロ(または羽管鍵盤)用に編曲した協奏曲群(通称:写弾曲、BWV 972–987)の最終作品として扱われることが多い一曲で、ニ短調の協奏曲として知られます。本稿では、史的背景、楽曲構造と音楽的特徴、バッハによる編曲上の工夫、演奏法上の注意点、版や録音の選び方まで、演奏者・聴衆双方にとって有益な視点から詳しく掘り下げます。
史的背景と成立事情
BWV972–987の一連の鍵盤用協奏曲編曲は、一般にバッハのワイマール時代(おおむね1713–1714年頃)に作られたとされ、主にイタリア人作曲家(特にアントニオ・ヴィヴァルディ)や当時流通していた協奏曲を基にしています。バッハはオーケストラの多声的テクスチャーを鍵盤上で再現するために、原曲のリトルネッロ構造や主題素材を残しつつも、自己の対位法的技術を巧みに付与しました。
BWV987はこれらの編曲群の末尾に位置し、写譜群全体を通じて示される「イタリア協奏曲」受容の最終形のひとつと見なせます。原曲の作曲者が明確に判明している作品もありますが、BWV987については原曲の特定が難しい、あるいは原曲資料が散逸している可能性も指摘されており、編曲自体を独立した芸術作品として扱う研究が多くなされています。
楽曲構造:典型的な協奏形式と鍵盤化の特色
鍵盤協奏曲BWV987は、当時のイタリア協奏曲の典型に従って三楽章(速—緩—速)からなるリトルネッロ形式の骨格を持つと考えられます。第一楽章はアレグロ系の速い楽想で、主題の提示とリトルネッロ主導の対位的展開が交互に現れます。第二楽章は緩やかな歌唱的アリア風の楽想で、ニ短調に内包される短調の情感が深く表現されます。終楽章は軽快なリズムで終止し、装飾やパッセージの技巧性が前面に出ます。
鍵盤編曲としての特徴は次の点に集約できます。
- オーケストラの各声部を左右両手に再配分し、時に低音を擬制的に伴わせながら多声性を確保すること。
- 原曲のリトルネッロ主題を保持しつつも、対位法的に充実させることで鍵盤独奏としての表現力を拡大していること。
- ハーモニーの補強や内声の埋め込み、左手へのパッセージ付与など、鍵盤奏法に特有のテクスチュアが付加されていること。
和声・対位法・音楽語法の諸相
ニ短調という調性は、バロック期において悲愴さや深い感情を表す色彩を持ちます。BWV987では短調特有の下属和音の扱いやニ短調領域での調性拡張が、対位法的操作と結びついて緊張感を作り出します。特に第一楽章のリトルネッロ主題では、短い断片的動機を用いて順次進行や転調を行い、リトルネッロと独奏部の対話がひとつのドラマを形成します。
またバッハはしばしば和声進行に装飾的な横線(内声の独立)を加え、原曲の旋律線に対して対位的返答を導入します。こうした処理は編曲を単なる写しではなく創造的再解釈に変えるもので、聴き手はオーケストラ作品としての「原曲」と鍵盤独奏作品としての「BWV987」の双方を想起しながら新たな音楽体験を得ることができます。
演奏上の留意点(チェンバロ/モダンピアノ)
歴史的に見れば、BWV987はチェンバロ(羽管鍵盤)上での演奏を前提に編曲されています。チェンバロで演奏する場合は次の点に注意するとよいでしょう。
- 音量的なコントラストが限定されるため、音色やタッチ、ニュアンスでアーガイル(句読)の変化を示すこと。
- 反復や装飾(トリル、モルデントなど)を史的奏法に基づいて適切に挿入し、フレージングを明確にすること。
- 低音パートと上声部のバランスを工夫し、対位法的線の輪郭をはっきりさせること。
現代ピアノで演奏する場合は、ダイナミクスやペダリングの扱いに配慮が必要です。過度なレガートやペダル使用は対位法の明晰さを損なうため、短いペダルや指による重ね引き(レガート連結)で線を作る工夫が求められます。一方でモダンピアノならではの色彩表現を使って抒情的な箇所を深めることも可能です。
版と写本、校訂の問題
BWV987を含む鍵盤用編曲群はオリジナルの自筆譜が残るものと写本が混在します。研究・演奏の際は以下を参考にすることを推奨します。
- バッハ研究機関のデジタルアーカイブ(Bach Digital)で原資料や写本の画像・解説を確認する。
- 信頼できる校訂版(New Bach Edition等の系譜にある版)を基礎にし、演奏上の選択(反復や装飾)は史的奏法書に照らして決定する。
- 譜例上の筆写ミスや省略、装飾符の有無は複数版を比較して解釈する。
解釈の多様性と現代の聴き方
BWV987は、原曲のオーケストラ的響きを鍵盤で如何に再現するかという問題を投げかけます。ピリオド楽器・史的奏法アプローチは、オリジナルの響きやテンポ感を復元しやすく、ハーモニーの明晰さやリズムの躍動を強調します。一方でモダンなピアノ解釈は、色彩やダイナミクスの幅を活かして別の魅力を提示します。どちらも楽曲の異なる側面を照らす有効な手段です。
演奏・鑑賞のための具体的な聴きどころ
聴きどころを整理すると次の点が挙げられます。
- 第一楽章:リトルネッロ主題の提示と各独奏パッセージの主題再解釈を比較し、対話の構造を追うこと。
- 第二楽章:歌唱的な主題線と内声の動きに注目し、短調の内面性を味わうこと。
- 終楽章:技術的な華やかさだけでなく、リズムの切れとフレーズ処理の機知によって終結へ向かう流れを聴き取ること。
演奏・研究のためのおすすめ資料
原典や信頼できる校訂を手元に置くことが重要です。楽譜は複数版を比較し、装飾や反復の扱いを検討してください。また、史的奏法に関する文献(C.P.E.バッハや当時の器樂教本)に目を通すと解釈の幅が広がります。
結び — BWV987が伝えるもの
BWV987は単なる写しや編曲を越え、バッハの再創造的な芸術性を示す好例です。オーケストラ的な素材を鍵盤上に凝縮することで、対位法、和声感覚、リズム感覚が新たに浮かび上がります。演奏者は史的文脈と鍵盤固有の表現手段を同時に考慮することで、作品の深層を聴衆に伝えることができます。
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参考文献
- Bach Digital – Bach Digital Work / 資料検索(バッハ・デジタル)(原資料・写本の索引と画像)
- IMSLP – Keyboard Concerto in D minor, BWV 987 (Johann Sebastian Bach)(楽譜・版の参照)
- Wikipedia (英語) – Keyboard concertos, BWV 972–987(概説)
- Oxford Music Online / Grove Music Online(バッハと鍵盤協奏曲に関する解説。要購読)
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