バッハ:BWV 992 カプリッチョ「最愛なる兄の旅立ちに寄せて」——背景・楽曲分析と演奏ポイント

序文:プログラム音楽としての早期バッハ

J.S.バッハのカプリッチョ BWV 992(通称「最愛なる兄の旅立ちに寄せて」)は、作曲年代・成立事情ともに確証の取りにくい初期鍵盤作品の一つでありながら、彼の創作における物語描写(プログラティックな手法)が明瞭に現れる珍しい例です。曲は短いながら明確な場面性を持ち、別れと旅路を象徴的に描写することで聴衆の想像力を喚起します。本稿では、史的背景、楽曲構造と音楽表現、演奏上の注意点、現代における受容といった観点からBWV 992を詳しく掘り下げます。

作曲年代と成立事情

BWV 992は一般にバッハの若年期(おおむね1704年頃から1706年前後)に位置づけられることが多く、作曲当時のバッハがリュートやチェンバロ、クラヴィコードなど鍵盤楽器のために多彩な小品を書いていた時期に当たります。自筆譜(オートグラフ)は現存せず、伝承は写譜に依存します。そのため作曲の正確な年次や当初の意図については諸説ありますが、曲の性格や技巧、同時期の他作品との比較から初期の鍵盤作品に共通する特徴を示していることは確かです。

タイトルとプログラム性

作品はプログラム(物語)作品として知られ、タイトルから『最愛なる兄の旅立ちに寄せて』という別れの主題が提示されます。バッハ自身の明確な記述が残されていないため、タイトルが作曲者の直筆か、あるいは後代の写譜者や出版者による付与かについては諸説あります。しかし、楽曲内に見られる音形や対位法的処理、情緒の起伏は「別れ」「旅」「慰め」といった場面を音で描くことを強く示唆しており、当時の音楽語法(リトリカルな表現、音楽的な擬態)と整合します。

楽曲構造と主要素材の分析

BWV 992は比較的短い小品ですが、いくつかの連続する場面から成る組立的な構成をとります。全体としては以下のような流れを想定して聴くと、曲が持つ物語性が見えてきます。
  • 別れの嘆き(出発前の感傷)— 低音域の持続や装飾的なメロディで嘆きや涙を連想させる表現。
  • 旅の出立(動き出す場面)— リズム的に活発なパッセージや連続するスケールで歩行や馬車の進行を暗示。
  • 旅路の外景(風景・軍楽・ラッパ)— 高音域に響くトランペット的な跳躍や、複数声部のファンファーレ的動機。
  • 再会か別離の諦観(まとめ・フーガ的展開)— 対位法や模倣を用いた終結部で、別れへの内的整理や精神的な昇華を描写。
形式面では通俗的なソナタ形式や舞曲形式に当てはめることは難しいものの、対位法的な技能(短いフーガ的展開や模倣の使用)とリトリカルな単位の連結で全体を統一している点が興味深いです。特に終盤での模倣的処理は、バッハが若年期から対位法の技術をすでに成熟させていたことを示します。

音楽表現とレトリック

この作品ではバロック期の音楽レトリック(affekt 表現)が顕著で、旋律線の下降や付点リズム、ハーモニーの予期せぬ転換が感情の揺れを作り出します。また「ラッパ」「馬車」「嘆き」といった具象的イメージを想起させる音型(跳躍音形、オクターブや五度を強調する図式、手の交差・オクターブの連打など)を用いることで、リスナーに具体的な情景を提示します。これは言葉で説明する代わりに音で意味を示す、バッハの擬似語的表現(musical rhetoric)の一例といえます。

楽器と演奏の実践的配慮

BWV 992は鍵盤楽器用に書かれた作品として現代ではチェンバロ、フォルテピアノ、現代ピアノ、クラヴィコードなど様々な楽器で演奏されます。演奏上のポイントは以下の通りです。
  • 音色選択:場面描写を活かすため、トランペット的な高音は明晰で金属的なタッチを用いると効果的。嘆きや内省の場面は柔らかいレガートやクラヴィコード的な沈潜で表現できる。
  • テンポ感:場面ごとにテンポの差をはっきりつけることで物語性が明瞭になる。出発・行進の場面は比較的速め、嘆きの場面はゆったりめが基本。
  • 装飾とアーティキュレーション:当時の装飾奏法(mordent, trill等)を文脈に応じて配する。短い表情的装飾は語尾の意味づけに有効。
  • 対位法の明瞭さ:複数声部が交錯する箇所では声部の輪郭を明確に保ち、模倣関係を聞き取らせることが重要。

解釈の幅と現代的受容

BWV 992は、その短さと劇的な場面転換ゆえに演奏家ごとに解釈の幅が広がります。歴史的演奏法に基づくチェンバロ演奏は場面描写を古楽器ならではの音色差で明瞭に提示しやすく、現代ピアノではダイナミクスの幅を利用してより劇的な対比を付けることが可能です。リスナーへの訴求力の面でも、短い中に凝縮されたドラマ性が評価され、多くの録音が残されています。

聴きどころのガイド

初めてこの曲を聴く方には、以下のポイントに注意して聴くことをおすすめします。
  • 冒頭から中盤にかけての音型の変化を追い、どこが「嘆き」でどこが「出立」かを想像してみる。
  • 高音部の跳躍と低音の持続が作る「呼応」を意識することで、場面の対比を捉えやすくなる。
  • 終盤の対位法的な処理は作品の精神的なまとめであり、ここでの模倣や和声進行の妙を味わう。

研究上の論点と未解決の問題

BWV 992に関しては、作曲動機(誰の別れを念頭に置いたのか)、成立年、原題の帰属(バッハ直筆か後世の付与か)といった点が学術的な議論の対象です。写譜資料の比較や同時代の手稿との照合、作品内の様式的特徴の定量的研究などにより、少しずつ理解は深まっていますが、完全な結論には至っていません。こうした不確定性が、同時に研究と解釈の自由度を高めているとも言えます。

総括:短くも濃密な物語

BWV 992は短い鍵盤作品でありながら、バッハの語法が凝縮された珠玉の小品です。初期の作風や対位法的素養、音楽における物語描写の可能性を示す点で重要であり、演奏者にとっては解釈の幅が広い分だけ創造的な判断が求められます。両手に込められた小さなドラマを丁寧に描き出すことで、聴き手は「別れと旅」という普遍的なテーマに深く触れることができるでしょう。

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参考文献