バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番 BWV1012 — 歴史・編成・演奏解釈ガイド

序文:第6番の特異性と魅力

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲(BWV 1007–1012)は、ソロ弦楽器文学の頂点のひとつとして広く演奏され、研究されてきました。その中で第6番ニ長調 BWV1012 は、楽器編成や演奏法、写本史などに関して特異な問題を含むため、特に議論と興味を呼ぶ作品です。本稿では史料的背景、楽器考察、各楽章の音楽的分析、演奏上の課題と実践例、主要版と録音の動向までを可能な限り正確に整理し、演奏者と愛好家の双方にとって役立つ深掘りを試みます。

写本と史料:何が残されているか

バッハ自身の自筆譜(自筆写本)がこの組曲群について現存しないことは重要な前提です。現在の主要な史料は18世紀に成立した筆写譜で、なかでもアンナ・マグダレーナ・バッハによる写本は無伴奏チェロ組曲全体の重要な供給源の一つとされています。ただし、各写本間には細部の相違があり、BWV1012についても同様に異伝があります。このため現代のウルテクスト校訂(Henle, Bärenreiter 等)は複数の写本を照合して校訂を行っています。

編成と楽器問題:五弦チェロか、別の楽器か?

BWV1012が他の5曲と比べて特に高音域を多用している点は明瞭です。第6番では高い音域での開放弦や高位置の運指が頻出し、現代の標準4弦チェロ(最低弦:C)だけでなく追加の高音(E)の必要性が議論されてきました。音楽学のコンセンサスとしては、バッハがこの組曲を五弦の小型チェロ(しばしば「ヴィオロンチェロ・ピッコロ」または「チェロ・ピッコロ」と呼ばれる)を想定して作曲した可能性が高いとされますが、これは決定的な証拠による確証があるわけではありません。

「五弦説」を支持する理由:

  • 高音域の頻出と、低いC弦への依存が比較的少ない点(高音のEが重要な役割を担う)
  • 18世紀の器楽慣習において、バロック期には目的に応じて弦の数が異なるチェロ系楽器が使用されていたこと
  • 写本上の音域・ポジションの書き方が五弦楽器に適していると解釈されうること

とはいえ、現代のチェリストは複数のアプローチを採ります:五弦チェロを用いる者、原調のまま4弦チェロでハイポジションに展開する者、あるいは演奏上の安定性を優先してト長調などに移調して演奏する者もいます。いずれの選択も音色・技術・解釈に重大な影響を与えます。

曲の配列と各楽章の概観

典型的な構成は以下の6楽章です(序曲的な Prelude を含む伝統的な配列):

  • Prelude(プレリュード)
  • Allemande(アラマンド)
  • Courante(クーラント)
  • Sarabande(サラバンド)
  • Gavottes I & II(ガヴォット 1・2)
  • Gigue(ジーグ)

個々の楽章について、より詳しい音楽的特徴と演奏上の注目点を述べます。

プレリュード(Prelude) — 広がりと即興性

第6番のプレリュードは長大で、豊富な和声進行とアルペジオ的な素材を駆使して展開されます。和声的にはニ長調を基調にしつつ、遠隔調への短い遠征やシーケンスによる領域拡大が見られ、即興風の自由な流れが特徴です。テクスチュアは多くの場合アルペジオで構成されますが、同時に和声の輪郭を明瞭に示すための内声線(暗に含まれるベースラインやカウンターメロディ)が要求されます。

演奏上は次の点が重要です:アルペジオの均衡(和音の輪郭を常に明示する)、フレージングの方向性(シーケンスやクライマックスへのビルド)、および五弦またはハイポジションでの音色管理。装飾はバロック慣習に忠実に、しかし現代的な表現を加える余地もあります。

アラマンド(Allemande)とクーラント(Courante) — ダンスの内部化

アラマンドは中庸のテンポで流れるダンス楽章。バッハ的な対位法の要素が入り交じり、均整の取れたフレーズ構造があるため、歌うようなラインを如何にして弾くかが鍵です。クーラントは跳躍感と推進力があり、リズムの取り方(フランス式とイタリア式の微妙な違い)を意識して解釈する必要があります。両者ともにバロック・ダンスとしての性格を保ちながら、独立した純音楽的構成を示します。

サラバンド(Sarabande) — 表情と時間感覚

サラバンドは組曲の中で最も叙情的で重厚な楽章の一つです。拍の第2拍に重心が置かれるその特性を如何に表現するかが、深い音楽性を示す肝となります。長い音の保持、微妙なテンポの揺れ、装飾音(経過音やトリル)の扱いが演奏者の個性を反映します。第6番のサラバンドは特に内声の動きが豊かで、チェロの歌唱性を最大限に生かす機会を与えてくれます。

ガヴォット(Gavotte I & II)とジーグ(Gigue) — 対照と締めくくり

二つのガヴォットは対照的な性格を示し、通常はそれぞれを繋げて演奏します(Gavotte I — II — I の形式)。一方は装飾的かつ躍動的、もう一方は素朴で短いフレーズを特徴とすることが多いです。終曲のジーグは躍動感に満ち、しばしばフーガ的・模倣的要素を含むことで作品全体を活気づけ、エネルギッシュに閉じます。

演奏上の主要な技術的課題

第6番を演奏するうえで直面する主な技術的課題は次の通りです:

  • 高音域の安定:ハイポジションや高音の表情を失わずに音程を保つこと。
  • 多声の明瞭化:ソロ楽器であるがゆえの和声の輪郭を明確にするため、左手の指替えと右手の弓使いを精緻にコントロールすること。
  • フレージングと息づかい:歌うようなラインとバロック的なリズム感を同居させること。
  • 楽器選択に由来する問題:五弦を用いる場合は追加弦の共鳴を活かす一方で、現代的な4弦で弾く場合は指使いとポジション移動を戦略的に選ぶ必要がある。

版(エディション)とピアノ・リダクションの扱い

現代に流通する主要なウルテクスト版としては、Henle(G. Henle Verlag)やBärenreiterといった版があり、これらは複数の写本を比較検討した上で校訂が施されています。演奏者は単に音符をなぞるだけでなく、アーティキュレーション、ダイナミクス、装飾の取り扱いについて各版の注記を参照し、自分の解釈を形成していくことが推奨されます。またピアノ独奏版やチェロ+ピアノ編曲も多数存在しますが、無伴奏曲としての構造と音響を尊重する解釈が重要です。

歴史的演奏と近現代の名録音

20世紀以降、この組曲群はチェロ奏者のレパートリーの中核となりました。パブロ・カザルス(Pablo Casals)は20世紀前半にこれらをレパートリーとして世に広めた一人であり、現代チェロ独奏の解釈基盤の形成に大きな役割を果たしました。その後、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ヨーヨー・マ、ピエール・フルニエ、アナ・パスカリス(ヴァイオリンからの編曲演奏も含めて)など多様な名演が登場しています。

歴史的演奏運動の流れでは、バロック・チェロ(当時のガット弦、短い弓、低い弦圧)や五弦チェロによる録音も増え、楽器の違いが音色と解釈にどのように影響するかを示す比較が可能になりました。演奏を聴き比べることで、各奏者のテクニックと音楽観の違いを学ぶことができます。

解釈上のポイント(まとめ)

第6番を演奏・理解する際の重要な視点は以下です:

  • 楽器の選択は演奏上の根本的な決定であり、解釈や音色形成に直結する。
  • 各楽章の舞曲的性格を尊重しつつ、バッハ的語法(対位法、内声の独立、和声的推移)を明確にすること。
  • バロックの装飾法と現代的表現のバランスを取ること。過度なロマンティック化は避けるが、感情表現を犠牲にする必要はない。
  • 写本の差異を意識して、校訂版の注記を参照すること。

結語:第6番が現代にもたらす示唆

BWV1012はその技術的・史的な特異性ゆえに、単なる演奏会用のレパートリーを超えて、楽器史、演奏実践、校訂学といった多面的な学際的考察を促します。演奏者はこの作品を通じてバロック音楽の言語を学び、楽器と奏法の関係性について深く考える機会を得るでしょう。聴衆にとっては、楽器の音色や奏者の解釈の違いが明瞭に表れる作品でもあります。

エバープレイの中古レコード通販ショップ

エバープレイでは中古レコードのオンライン販売を行っております。
是非一度ご覧ください。

エバープレイオンラインショップのバナー

また、レコードの宅配買取も行っております。
ダンボールにレコードを詰めて宅配業者を待つだけで簡単にレコードが売れちゃいます。
是非ご利用ください。
https://everplay.jp/delivery

参考文献