ヒッチコック『三十九夜(1935)』を深掘り:サスペンスの原点と映画技法の革新

概要

『三十九夜(The 39 Steps)』(1935)は、アルフレッド・ヒッチコック監督によるイギリスのスリラー映画で、ジョン・ブキャナンの小説『The Thirty-Nine Steps』(1915年)を原作にしている。主演はロバート・ドナット(リチャード・ハネイ役)とマデレーン・キャロル(パメラ役)。短いランタイム(約86分)にスリル、ユーモア、ロマンスを凝縮し、「マン・オン・ザ・ラン(追われる男)」というサスペンスの典型を確立した作品として評価されている。

あらすじ(簡潔)

舞台は1930年代のイギリス。平凡な英国紳士リチャード・ハネイは、ある夜自宅に見知らぬ女性(間者)を匿ったことから事件に巻き込まれ、彼女の殺害容疑で逃亡する。ハネイは自身の潔白を証明し、同時に国家機密を狙う謎の組織「三十九夜」の陰謀を暴こうと奔走する。逃走中に出会う女性パメラを巻き込み、二人は列車や田園、音楽ホールなどを移動しながら真相に迫る。

制作と脚本──映画化における大胆な改変

原作は第一次世界大戦前後のスパイ小説として知られるが、ヒッチコックの映画版は原作から大胆に改変を加え、テンポと視覚的サスペンスを優先した。脚本はチャールズ・ベネットらの手によるもので、原作の重厚な国際陰謀譚を映画的に圧縮し、登場人物の配置や事件の見せ方を再構成した。ヒッチコック自身は、物語の本筋(いわゆる“マクガフィン”)をあえて曖昧にして観客の注意を人物描写と瞬間の恐怖へ向けさせる手法を採用している。

演出と映像表現──ヒッチコック流のサスペンス構築

本作はヒッチコックの「語りすぎない」演出が光る。観客に情報を与えすぎず、不安を積み重ねることで恐怖を生む手法が徹底されている。特に次の点が特徴的だ。

  • 構図と追跡:列車内、田舎道、音楽ホールなどのロケーションを活用した追跡劇は、画面の奥行きと移動感で緊張を生む。
  • 編集とテンポ:短いカットと効果的なクロスカッティングで限定状況の緊迫感を増幅。
  • ユーモアの混入:緊迫した場面にコミカルな瞬間を挿入することで、観客の緊張を操作し、次の不安を効果的に生む。

主要なシーンの分析

いくつかの名場面は、物語上のスピード感とキャラクターの関係性を表現する上で特に重要だ。

  • 音楽ホールの“Mr. Memory”の場面:物語の情報を観客に示すと同時に、舞台の明るさと舞台裏の暗さを対比させる。ここでのスリルは“公の場での真実暴露”という趣向から生まれる。
  • 列車と田園の追跡:移動の中で主人公の孤立感と追跡者の存在感を際立たせる。閉鎖空間(列車)と広漠な野外(田園)を行き来することで視覚的緊張が続く。
  • クライマックスの音楽ホールの舞台:舞台上での追跡と暴露は、観客と登場人物が同じ空間にいる劇場性を活かした見せ場となっている。

人物造形と演技

ロバート・ドナットのハネイは、知的で機転の利く“普通の男”として描かれ、観客は彼の視点で状況を追う。ドナットの自然な演技は観客の共感を誘い、逃亡劇のリアリティに貢献する。マデレーン・キャロルのパメラは当時としては先進的な“能動的なヒロイン”の役割を果たし、ヒッチコック作品にしばしば見られる“頼れる女性像”への布石となる。二人の掛け合いにはロマンス的な緊張も織り込まれており、それが単なるサスペンスに深みを与えている。

テーマとモチーフ

本作で繰り返されるテーマは「誤認と追跡」、「個人対国家・陰謀」、「旅と移動」といったもの。さらにヒッチコック的な「視覚の疑念」──見たものの信頼性や情報の断片性──が強く働く。マクガフィン(物語を動かすが本質的にはどうでもよい対象)という概念がよく語られるが、本作ではそれを逆手にとり、観客の注意を人物の葛藤や瞬間的な恐怖へ向けさせることで、物語全体の力学を形成している。

原作との相違点

原作小説はより大規模な陰謀と政治的バックグラウンドを持ち、登場人物や設定も異なる部分が多い。映画版は物語を凝縮し、ユーモアやロマンティックな要素を強め、舞台的で視覚的なシーンを新たに配置している。これにより原作の重厚さは薄まるが、映画としてのスピード感と興奮を獲得している。ヒッチコックの改変は、物語の核を残しつつも映画固有の語り口に合わせた再構築と言える。

評価と影響

公開当時から高い評価を受け、今日に至るまでスリラー映画の古典と見なされている。多くの映画監督や批評家に影響を与え、「追われる男」というサスペンス・アーキタイプを定着させた。視覚的なトリック、テンポの管理、ユーモアを交えた緊張感の作り方は後続のスパイ映画やアクション・スリラーに多大な影響を与えた。

現代への受容とリメイク

『三十九夜』はその後もリメイクやオマージュの対象となっているが、オリジナルの魅力はヒッチコックのテンポ感や俳優陣の組み合わせ、そして観客への情報操作にある。現代の視点から見ると、当時の演出や撮影技術の制約を巧みに逆手に取った「映画の手仕事」が感じられ、デジタル時代にあっても色あせない説得力を持っている。

まとめ

『三十九夜(1935)』は、アルフレッド・ヒッチコックがサスペンス映画の様式を確立した重要作である。原作を大胆に再構成し、視覚的手段と編集で不安を操る手法は、後の映画表現に決定的な影響を与えた。緊張とユーモア、ロマンスを同時に運ぶこの作品は、いまなお観る者を惹きつける普遍的な力を備えている。

参考文献