インベンションとは何か──バッハの二声と三声の小品に見る技法と教育的価値
インベンションとは
「インベンション(Invention)」は、音楽史上では対位法的な小品を指す用語で、特にヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が体系化した鍵盤作品群によって広く知られています。一般には短い主題(モティーフ)を素材として、模倣や展開を通じて音楽的な発想を工夫(invent)することを目的とした二声あるいは三声の作品を指します。バロック期の対位法教育と密接に結びつき、演奏技術と作曲技法の双方を養うための教材として重視されてきました。
歴史的背景とバッハの位置づけ
バロック以前から声部間の模倣を用いる作法は存在しましたが、「インベンション」が独立した教育用小品として確立されたのは主にバッハの業績に負うところが大きいです。バッハ自身は若い世代のための練習曲や作曲教育の一環として二声の「Inventions(インベンション)」(BWV 772–786、全15曲)と三声の「Sinfonias(シンフォニア、三声的小品)」(BWV 787–801、全15曲)をまとめました。これらは教材的意図が明確で、当時の「Klavierbüchlein」(たとえばウィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小冊子)などと関連して伝わっています。
バッハによる教育的序文と目的
バッハはこれらの小曲に教育的目的を付与しており、対位法的思考、指の独立性、声部の均整、フレージング、表現上の対比(強弱やアーティキュレーション)などを学ぶための実践的教材として位置づけています。具体的には「一つの主題を二つ(あるいは三つ)の声部で取り扱うこと」「対位法的な模倣と展開を通じて調性と和声感を鍛えること」が主眼となります。バッハの短い指南は、学習者に対して手の扱い(指遣い)や音楽的な発想の組み立て方を示唆しています。
楽曲の構造的特徴
インベンションに共通する音楽的特徴は次のとおりです。
- 主題(モティーフ)中心の構成:各曲は明確な短い主題から始まり、その断片が模倣・断片化・展開される。
- 模倣(イミテーション):声部間の遅延模倣や転調を通じて主題が様々な調と声部で再現される。
- 対位法的発展:対位的な応答(カウンターサブジェクト)や対照的なエピソードを挟むことで形が整えられる。
- 調性と転調:短い形式の中で隣接調や属調への転調が巧みに行われ、和声の流れを学ぶ材料となる。
- テクスチャの均衡:二声あるいは三声の声部ごとに横の線(旋律)としての独立性を保ちながら全体が統一される。
代表例(聴きどころ)
各曲は短いながらも個性がはっきりしており、以下の点に注目して聴くと構造が見えてきます。
- 主題の第一提示における形(長短、休符の扱い)
- 模倣のタイミング(応答が同じ高さで行われるか、転調して行われるか)
- 中間のエピソードでの展開(縮小、逆行、伸長などの変形)
- 終結に向けた再提示と短縮(コーダ的処理)
演奏における実践的注意点
インベンションは教育用とはいえコンサート・レベルでの演奏にも耐え得る深みを持っています。演奏時のポイントは以下の通りです。
- 声部のバランス:二声間でどちらが主導・伴奏かが曲中で頻繁に入れ替わるため、それぞれの声部を常に意識し、対話としてのフレーズ感を作る。
- 指使い(フィンガリング)の最適化:バッハ作品は指使いの工夫が直接音楽的表現につながる。級数的に同一動作を繰り返す場合でも指替えを用いて流れを保つ。
- テンポと均衡:速さは技術だけでなく対位法の明瞭さに直結する。各声部の輪郭が失われない速度を選ぶ。
- 装飾とアーティキュレーション:バロック楽器と現代ピアノの差を考慮し、アーティキュレーションや軽重でフレーズを構築する。強弱(ダイナミクス)は過度なロマンティシズムに陥らないよう注意しつつ、声部の形づくりに用いる。
- 手分け練習:左右別々に練習し、声部の独立を確立してから合わせる。三声の場合は中声の線も重要で、薄くならないようにする。
教育的役割と現代での位置づけ
インベンションはクラシックの鍵盤教育で長く利用されてきました。初級を過ぎた学習者が対位法的思考、指の独立、音楽の構造把握を身につけるための中核教材となっています。ピアノ教育のカリキュラムでは、ハノンやチェルニーなどの基礎練習に並んで、実際の音楽的文脈で技術を応用する作品群として採用されています。さらに、作曲や即興の入門教材として、主題操作(反行、逆行、転調、断片化など)の教材価値も高いです。
楽器と演奏解釈の多様性
時代を経るにつれて、インベンションはハープシコード、チェンバロ、クラヴィコード、そして現代ピアノによる解釈といった多様な楽器上で演奏されるようになりました。各楽器の音色や減衰特性が異なるため、フレージングやレガート、装飾の付け方にも差が生じます。歴史的演奏慣行を重視する演奏家は、ストロークの短さや装飾の簡潔さを重視し、モダンピアノの演奏家はペダリングやダイナミクスで表情を付けるといったアプローチの違いが見られます。
現代音楽・教育への影響
インベンションの概念はバロックに留まらず、モチーフの有機的発展や短い音楽的アイデアの扱い方として現代作曲や即興演奏にも影響を与えています。小規模な対位法的練習は、音楽理論や作曲教育における基本訓練として今日でも活用され、現代の作曲教育では短いインヴェンション的実習を取り入れる大学や音楽院もあります。
聴き方と練習の具体的アドバイス
初めてインベンションを学ぶ・聴く人への具体的な提案です。
- 活字的なスコア(楽譜)を見ながら聴く:声部の移り変わりが視覚的に確認でき、模倣の仕組みが分かりやすい。
- 一声ずつ追ってみる:片手ずつ弾いて声部の流れを把握する。音のつながりと弱起・強起の位置を確認すること。
- モティーフの変化をメモする:逆行、拡大縮小、リズム変形など、どのように主題が変えられているかを書き出すと分析力が高まる。
- 複数の録音を比較する:ハープシコード演奏とモダンピアノ演奏を聞き比べることで解釈の幅が分かる。
おすすめの入門曲と学習の進め方
二声の短い曲から始め、徐々に調性や装飾の複雑さが増す曲へ進むのがよいでしょう。バッハの15曲はいずれも独立した学習教材として設計されているため、無理に順序に拘る必要はありませんが、C長調のような調性が明快なものから取り組むと調の感覚を掴みやすいです。
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参考文献
- Encyclopaedia Britannica: Invention (music)
- IMSLP: Inventions and Sinfonias, BWV 772–801 (scores)
- Bach Digital (Bach-Archiv Leipzig):バッハ作品情報データベース
- Bach Cantatas Website: Articles on Bach's Inventions


