ゲインステージング最適化:録音からマスタリングまでの実践ガイド
はじめに
ゲインステージング(gain staging)は、録音・ミキシング・マスタリングの各段階で信号レベルを最適に管理し、ノイズ、歪み、クリッピングを防ぎつつ望む音質やダイナミクスを得るための基礎技術です。デジタル化が進んだ現在でも、アナログ系機器とデジタル変換器(ADC/DAC)、プラグインの特性を理解して適切にレベルを整えることは、音質を大きく左右します。本稿では理論と実践を深掘りし、具体的な手順、メーターの見方、ターゲットレベル、トラブルシューティング、最終的な配信・マスタリング基準まで解説します。
ゲインステージングの基本概念
ゲインステージングとはシンプルに言えば「信号の流れの各ポイントで適切なゲイン(レベル)を設定する」ことです。目的は主に次の2点です。
- ノイズフロアを十分に上げつつ、過大なレベルによるクリッピングや不必要なデジタル歪みを避ける。
- 機材(プリアンプ、コンソール、インターフェース、プラグインなど)の動作点を最適化して、意図する飽和/歪み/ダイナミクスを得る。
各機器やプラグインには「ノミナルレベル(正常動作レベル)」が存在します。アナログ系ではたとえば +4 dBu が業務用ノミナル、家庭用は -10 dBV が多いです。デジタルでは dBFS(full scale)が基準で、0 dBFS がクリッピング点です。異なる基準を跨いで作業するため、物理量(dBu)とデジタル量(dBFS)を意識することが重要です。
アナログとデジタルの関係:dBu と dBFS
ADC/DAC の仕様により dBu と dBFS の対応が定義されます。一般的にプロフェッショナル機器は「+4 dBu = -18 dBFS(あるいは -20 dBFS)」のように設定されることが多く、これはアナログの0 VU に相当するデジタル目標となります。Bob Katz などのエキスパートは「0 VU ≒ -18 dBFS」を推奨していることが多く、ミックス段階でこの値を基準にすることで最良のS/N比と十分なヘッドルームが得られます。
要点:
- 0 VU(アナログの基準) ≒ -18 dBFS はミックスで目安にする良い基準。
- ピークは 0 dBFS を超えないように。インターサンプルピーク(ISP)やトゥルーピークにも注意して、トゥルーピークメーターを用いる。
- プリアンプやアナログ機器で意図的に飽和させたい場合は、そこに到達する入力レベルを設計しておく。
メータリングの種類と使い分け
ゲインステージングでは複数のメーターを併用します。それぞれの特徴と用途は以下の通りです。
- ピークメーター:瞬時の最大レベルを示す。クリッピング防止のため不可欠。
- RMS / 平均メーター:エネルギー感や聴感上のラウドネスを示す。ミックスのバランス把握に有用。
- LUFS(ラウドネス、ITU-R BS.1770準拠):放送やストリーミングにおける統一指標。放送規格や各配信サービスのノーマライズ基準に合わせる場合に使用。
- VUメーター:アナログ的な平均感覚。コンプレッションやパンチ感を判断する上で有用。
- トゥルーピーク(dBTP)メーター:インターサンプルピークを検出し、出力がデジタル変換で0 dBFSを超える問題を把握する。
実践ワークフロー:録音からミックスまでのレベル設計
以下に段階ごとの具体的な手順を示します。これは一般的なワークフローの一例で、ジャンルや意図により微調整します。
1) 録音時(レコーディング)
- マイク → プリアンプ段階で、ピークが -12~-6 dBFS 程度になるように設定。平均的には -18 dBFS 前後を狙う(話者・歌唱のダイナミクスにより調整)。
- 過度な入力レベルでADCを飽和させない。アナログ的な温かみを求めて意図的に飽和させる場合は、どの程度の歪みが出るかを試聴して決める。
- 録音時にリミッターを噛ませるかは素材次第。安全策としてピークリミッターを軽めに使うこともあるが、原音のダイナミクスを損なわないよう注意。
2) トラック整備(編集)
- 不要ノイズを除去し、クリップゲイン(DAWのクリップノーマライズや音量調整)でパートごとの平均レベルを揃える。
- ボーカルなどの重要パートはダイナミクスが安定するように、平均を -18 dBFS 前後にもっていくとミックスでの処理がしやすい。
3) ミックス段階
- 各トラックのフェーダーを操作する前に、インサートの前段でトリム/ゲインプラグインを使ってヘッドルームを確保する(プラグインは多くがユニティゲインを前提としている)。
- グループバスやサブミックスでは、合計レベルがピークで -6~-3 dBFS を超えないように設定(ジャンルによる)。マスター出力はさらに余裕を持ち、ピークが -6 dBFS 前後を目安にすると良い。
- プラグインの順序も重要:一般的にゲイン調整 → EQ → コンプレッサー → 強めの飽和処理 → リミッターの順で考える。インプットで適切な入力レベルを与えることがコンプの動作を安定させる。
4) マスタリング前
- マスタリングエンジニアに渡すステム/ミックスダウンは、クリッピングしない状態で十分なヘッドルームを残す。一般的にミックス出力のピークを -6 dBFS 程度にする、あるいは統合ラウドネスが -18 ~ -14 LUFS の範囲にあると扱いやすい。
- ステムを渡す場合、それぞれのステムがクリアで頭打ちしていないことを確認する。
プラグインごとのゲイン管理と順序
プラグインは製作者ごとに入出力仕様や内部ヘッドルームが違います。特にアナログエミュレーション系プラグインやサチュレーションプラグインは入力レベルで音色が大きく変わります。一般的なガイドライン:
- 入力レベルを確保してから EQ → コンプをかける。入力が低すぎるとコンプの検出回路(サイドチェイン)が正しく動作しないことがある。
- サチュレーションやテープエミュレーションは意図的にレベルを上げてトランジェントを飽和させることで音色を作る。だが全体がクリップしないようにインサート前後でトリムを行う。
- 多段でゲインを稼がず、必要ならトリムプラグインで整える。各プラグインをユニティ付近で動作させるのが安全。
ラウドネスと配信基準
ストリーミングサービスはラウドネス正規化を行い、各サービスごとに基準があります。代表例:
- Spotify: 推奨目標は -14 LUFS(統合ラウドネス)。
- Apple Music: おおよそ -16 LUFS 程度のノーマライズ(環境により差異あり)。
- YouTube: -14 LUFS を目安に動作することが多い。
配信前のマスターはトゥルーピークを考慮して、最終リミッターで dBTP(トゥルーピーク)を -1 dBTP 〜 -2 dBTP にしておくのが安全です。各サービスの仕様を確認し、それに合わせたラウドネス調整を行ってください。
トラブルシューティング:よくある問題と対処法
- クリッピングが起こる:原因は入力過多、バスやグループ合成でのレベル上昇、プラグインでのゲイン増加。対処はトリムで入力を下げ、インサート順を見直す。
- ノイズフロアが高い:録音レベルが低すぎる可能性。最初に記録する際に十分なプリアンプゲインを与え、アナログノイズとデジタルノイズのバランスを取る。
- コンプの動作がおかしい:入力レベルが低すぎるとサイドチェイン検出が甘くなる。トリムで適切な入力にするか、プラグインのサイドチェイン感度を調整する。
- 全体が薄く聞こえる:複数トラックの位相やパン、EQの重なりで音像が散っている場合がある。個別でレベルと帯域を整理し、必要ならサチュレーションで密度を足す。
チェックリスト:ミックス前に確認すべき項目
- 録音ファイルがクリップしていないか(0 dBFS を超えていないか)。
- 各トラックの平均レベルが大きくばらついていないか(おおむね -24〜-12 dBFS の間で整理)。
- サブミックス/バスのピークが過度に高くないか(バス合成でのヘッドルームを確保)。
- トゥルーピークを確認し、インターサンプルピーク対策を行う。
- 最終マスターに対して十分なヘッドルーム(目安 -6 dBFS のピーク)を残しているか。
応用テクニック:意図的な歪みとダイナミクスの設計
ゲインステージングは単にクリッピングを避けるためだけのものではありません。意図的にアナログ飽和を作る場合、段階的にゲインを与えていくことで温かみやコンプレッション感を作れます。手法例:
- トラックレベルを少し低めに保ち、サチュレーションプラグインで色付けしてからフェーダーで戻す。
- バス段で軽いテープエミュレーションを加え、全体の密度を上げる。これでマスター段のリミッターの動作も穏やかになる。
- マイクプリでのアナログ飽和は、レコーディングフェーズでのみ生成される固有のキャラクターを生む。再現性のある設定を記録しておく。
まとめ:最適化の本質
ゲインステージングは技術と耳の両方を使う作業です。数字(dBFS、LUFS、dBu)を理解し、メーターを活用して理想的な動作点を設計する。そして最終的にはリスナーの感覚が判断基準になります。以下のポイントを実践してください:
- 録音は十分なレベル(平均 -18 dBFS 前後、ピーク -12~-6 dBFS を目安)で行う。
- ミックス時は各段でヘッドルームを確保し、マスターは十分な余裕(ピーク -6 dBFS 程度)を残す。
- メータリング(ピーク/RMS/LUFS/トゥルーピーク)を併用し、配信基準に合わせる。
- プラグインの入出力と順序を意識して、意図的な飽和・歪みはコントロールされた箇所でのみ加える。
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参考文献
- Sound On Sound — Gain Staging in the Digital Domain
- ITU-R BS.1770 — Algorithms to measure audio programme loudness and true-peak audio level
- Dolby — True Peak and inter-sample peaks explanation
- Bob Katz — Mastering Audio(概念と推奨レベルについて)
- Spotify — Volume Normalisation
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