多帯域コンプレッション(Multiband Compression)完全ガイド:仕組み・設定・実践テクニック
多帯域コンプレッションとは何か
多帯域コンプレッション(Multiband Compression)は、オーディオ信号を複数の周波数帯域(バンド)に分割し、それぞれの帯域ごとに独立したコンプレッサー処理を行う手法です。通常のフルバンド(ワイドバンド)コンプレッサーが信号全体のダイナミクスを一括で制御するのに対し、多帯域は低域/中低域/中高域/高域などを分けて個別に圧縮できます。これにより、特定の周波数領域での過度なピークや不均一なバランスをより精密に補正できるため、ミックスやマスタリングで幅広く使われます。
基本構成と主要パラメータ
多帯域コンプレッサーは基本的に次のブロックで構成されます。
- クロスオーバー(分割フィルター):信号を帯域に分割するためのフィルター。最も重要な要素の一つ。
- 各バンドの検出器(検出方式):RMS検出(平均的なラウドネス感)かピーク検出(短時間のピークに敏感)を選べることが多い。
- 各バンドのコンプレッサー:しきい値(Threshold)、比率(Ratio)、アタック(Attack)、リリース(Release)、メイクアップゲイン(Makeup)など。
- バンド間のリンク/サイドチェーン:複数バンドを連動させたり、外部/内蔵サイドチェーンでトリガーする機能。
各パラメータの意味は基本的に単一バンドのコンプレッサーと同じですが、帯域ごとに独立して作用するため設定の影響が周波数領域に限定される点が重要です。
クロスオーバー設計:リニアフェーズ vs ミニマムフェーズ
クロスオーバーの設計は音質に大きく影響します。主要なタイプは次の通りです。
- ミニマムフェーズ(最小位相)クロスオーバー:位相シフトは生じるがレイテンシーは小さく、トランジェントの自然さは保たれやすい。
- リニアフェーズクロスオーバー:位相歪みを回避できて位相整合がよいが、プリリンギング(前方に広がるアーティファクト)や高いレイテンシーを伴うことがあり、特に短いトランジェントで違和感が出る場合がある。
選択は用途によります。マスタリングなど位相整合が特に重要な場面ではリニアフェーズが好まれることがありますが、打楽器のアタック感を重視するミックス段階ではミニマムフェーズや位相の変化を許容するほうが自然な場合があります。
検出方式:RMS とピーク、さらにアタック/リリースの挙動
帯域ごとの検出方式は仕上がりに直結します。RMS検出は平均エネルギーに反応するため滑らかな圧縮を、ピーク検出は短時間の鋭いピークに即座に反応します。さらにアタック/リリースタイムを短くすると瞬間的なダイナミクスを抑え、長くすると自然な追従が得られます。多帯域では各バンドの持つ音楽的役割に応じて検出設定を変えるのが基本です(例:低域はピークに敏感に、上域はRMS寄りに)。
マルチバンドとダイナミックEQの違い
ダイナミックEQは周波数ごとに可変ゲインを行う手法で、帯域の幅やQ値を細かく指定できます。多帯域コンプは一般に帯域幅が広く、よりラフな「領域単位」のダイナミクスコントロールに向きます。結果として、軽い調整やマスキング解消にはダイナミックEQ、広い帯域のエネルギー制御やジャンル的なラウドネス管理には多帯域コンプが適する、という使い分けが一般的です。
レイテンシー・位相とモノ互換性の注意
リニアフェーズ処理やルックアヘッド機能はレイテンシーを生みます。音源の同期が必要な場面やライブ処理では問題になり得ます。さらに帯域分割によって位相が変化し、広帯域での打ち消し(フェーズキャンセル)やステレオイメージの変化を招くことがあるため、モノラル互換性や両チャンネルの位相関係を確認することが重要です。中にはバンドリンク(左右を連動)やミッド/サイド処理に対応したプラグインもあり、こうした機能で問題を緩和できます。
典型的な使用例と設定の目安(出発点)
以下はあくまで出発点の目安です。楽曲や音源により大きく変わるため耳で確認しながら調整してください。
- ボーカル(バスドラックス的補正): ローカット帯域(〜120Hz)に軽めの圧縮(1.5:1〜2.5:1)、上中域(1–5kHz)は抑えめに(2:1〜4:1)アタックやリリースは楽曲に合わせる。
- バス(ベース): 低域(20–120Hz)はピーク検出で短めのアタック、比率は2:1〜4:1。中低域(120–400Hz)でこもりを抑える。
- キック/ドラム: ローのアタック感を保つためローファンでアタック短め、リリースはビートに追従させる。スネアや上中域のアタックコントロールに別バンドを割り当てる。
- マスター: 極端な設定は避ける。4バンド程度で低域の過剰な膨らみと上域の刺さりをコントロール。リニアフェーズを使う場合はプリリンギングに注意。
実践ワークフロー(段階的)
- 目的を決める:問題除去(特定周波数のピーク)、楽器分離、ラウドネス調整など。
- スペクトラムを観察:どの帯域が問題かを視覚と耳で特定する。
- バンド設定:必要最小限のバンド数で分割する。多すぎると位相や音質管理が難しくなる。
- 検出方式を決める:低域はピーク、上域はRMSなど。
- しきい値と比率を耳で調整:過度な変化を避け、自然な動きを重視。
- 並列処理やバイパスでA/Bテスト:原音と比較して透明性や音楽性を確認。
よくある落とし穴と対策
- 過度な圧縮による“ポンピング”や不自然な位相変化:アタック/リリースを見直し、必要ならバンド数を減らす。
- プリリンギング(リニアフェーズ使用時):短いトランジェントが曇るならミニマムフェーズへ切り替え。
- モノ互換性の喪失:モニターをモノにして確認、ミッド/サイド設定を調整。
- 視覚メーターだけに頼る:数値より耳が最優先。微妙な設定は必ずリファレンストラックと比較する。
プラグイン選びと実例
主な商用・無償プラグイン(代表例):
- FabFilter Pro-MB(高機能・柔軟な帯域設定と検出モード)
- Waves C4/C6(古典的でCPU負荷が低い、音楽制作で広く使われる)
- iZotope Ozone Dynamics(マスタリング向けの多機能スイートに統合)
- MeldaProduction MMultiBandDynamics(多機能で価格性能比が高い)
- TDR Nova(厳密にはダイナミックEQだが、帯域ごとのダイナミクス管理に使える、無償版あり)
これらはそれぞれ得意分野が異なるため、用途(ミックス用かマスタリング用か、リアルタイム性か)に応じて選んでください。
マスタリングでの注意点
マスタリングにおいて多帯域コンプは強力ですが、過度に使うと音楽のダイナミクスやトランジェントを損ないます。一般に軽い設定で透明性を保ち、必要に応じて並列処理(原音と圧縮音を混ぜる)で効果を薄めるのが定石です。また、最終的なラウドネス処理(リミッター)との順序関係に注意してください。
まとめ:有効活用のための心構え
多帯域コンプレッションは特定周波数帯の問題解決や音像整形に非常に有効ですが、万能薬ではありません。まずは的確に問題を見極め、最小限のバンドと穏やかな設定から始め、耳での確認とA/Bテストを繰り返すことが重要です。リニアフェーズの便利さとプリリンギングの副作用、各バンドの検出方式による性質の違いを理解して使えば、ミックスとマスタリングの両方で大きな武器になります。
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参考文献
- FabFilter - Pro-MB ドキュメント: What is multiband compression
- iZotope - Ozone & Dynamics ドキュメント(製品ページ)
- Waves - C6 Multiband Dynamics(製品ページ)
- Tokyo Dawn Labs - TDR Nova(公式ページ)
- MeldaProduction - MMultiBandDynamics(製品ページ)
- Wikipedia - Dynamic range compression
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