モーツァルト『キリエ ト長調 K.89 (73k)』徹底解説:若き日の宗教作品を読み解く
はじめに — K.89とは何か
ウルフガング・アマデウス・モーツァルトの「キリエ ト長調 K.89(73k)」は、モーツァルトの教会音楽の中でも若年期に書かれた典型的な小ミサ形式の一つとしてしばしば取り上げられます。キリエ(Kyrie)は典礼文の冒頭部分であり、「主よ、憐れみたまえ(Kyrie eleison)」という三部構成(Kyrie/Christe/Kyrie)を取るのが通例です。K.89はその様式や書法において、まだ古典派の成熟前段階にあるモーツァルトの特徴—ガランテ(洗練された簡潔さ)、イタリア的な旋律感、写実的な対位法処理の併用—をよく示しています。
作曲年代と位置づけ
K.89(旧番号73k)はモーツァルトの若年期の作品群に属し、おおむね1769〜1772年頃の作曲と考えられています(正確な年は諸資料で多少の違いがあるため、年代付けには注意が必要です)。この時期はモーツァルト一家がザルツブルクに滞在していた時期と重なり、教会音楽を多く手掛けた時期でもあります。K.89は独立したキリエとして、あるいはミサ曲の一部として演奏・使用され得る短い形式を持ち、教会での日常的な典礼にも馴染むよう設計されています。
編成と楽器法
本作の標準的な編成は、混声四部合唱(SATB)に弦楽器(通常は第1・第2バイオリン、ビオラ)と通奏低音(チェロ/コントラバスおよびオルガンやチェンバロ)という、18世紀後半の小規模教会編成に適合したものです。器楽パートは合唱を支える伴奏的役割が中心で、時に合唱と対話する独立した素材を提示します。モーツァルトはこの時期、声部の明瞭さを重視しつつも、器楽の色彩や軽やかな装飾で典礼音楽に活力を与える書法を用いています。
形式と楽曲構成の分析
典型的なキリエの三部構成(Kyrie / Christe / Kyrie)を踏襲しており、各部分は短く明快な楽節で構成されています。
- 第1部 Kyrie: ト長調で開始。主題は広がりのある合唱の和声的提示で始まり、シンプルな対位法的展開を伴いつつ、クラシック期初期の明晰なリズム感と均衡の取れたフレージングが際立ちます。
- 第2部 Christe: 中間部はChriste eleisonの柔らかな嘆願を表すように、やや穏やかな表情で展開します。旋律線にはより歌謡的な性格が増し、ソフトな装飾や応答的な短いフレーズを用いることによって、対照を生み出します。
- 第3部 Kyrie(再現): 最初の素材に戻りつつ、短く再確認して終了する構成が一般的です。再現部はしばしば短縮や装飾の変化を伴って終結へ向かいます。
和声と旋律の特徴
K.89における和声語法は、古典派初期の典型を示します。属調への確かな流れ、機能和声に基づく明瞭な進行、そして閉鎖的な終止を好む傾向が見られます。旋律はシンプルで歌いやすく、合唱のためのフレーズは均整が取れており、宗教的な厳かさと親しみやすさを両立させています。短いモチーフの反復と変形、対位法的な重なりが節の輪郭を形成し、聴き手に安定した印象を与えます。
合唱書法と声部の扱い
モーツァルトの若年期の合唱書法は、声部ごとの独立性と均衡を重視します。主要なメロディはしばしば上声に置かれますが、和声のバランスを取るために内声にも動機的役割を与えることが多いです。K.89では、ホモフォニック(和声的)な部分とポリフォニック(対位的)な部分が交互に現れるため、合唱団は清晰なアーティキュレーションと音量コントロールが要求されます。特にテキストの明瞭性(テクスト・ディクション)が重視され、アクセントの置き方やフレージングが典礼的な意味合いを伝える鍵となります。
演奏上のポイント(実践的アドバイス)
- テンポ感: 若いモーツァルトのキリエは過度に重くする必要はなく、自然な歌合せと語りかけるようなテンポ感が望ましい。第1部はやや生き生きと、第2部は内省的に。
- アーティキュレーション: 合唱は母音を中心に明瞭に、子音は短めに処理してテクストの明瞭性を保つ。
- バランス: 弦楽器と合唱のバランスを重視。通奏低音(特にオルガン)は和声を支えつつも合唱を覆わないように。
- 装飾: 若年期の作品らしく、過度のロマンティックなルバートや過剰なヴィブラートは避け、古典的な均衡と透明性を保つ。
同時代の影響と位置づけ
K.89は、当時のザルツブルクやイタリアの教会音楽の伝統に影響を受けています。モーツァルトは旅を通じてイタリアのオペラや宗教音楽に触れており、その歌謡性や明快な和声感覚が教会作品にも反映されています。また、父レオポルトやザルツブルクの宮廷音楽家から受け継いだ実務的なミサ作法(短時間で演奏されるミサや典礼の合間に使える断片的な曲の創作)も本作の背景にあります。
版・楽譜・校訂について
K.89を含むモーツァルトの宗教作品は、原典版やニュー・モーツァルト・アウスガーベ(Neue Mozart-Ausgabe)などの校訂版が信頼されます。演奏する際は、原典に忠実な版を参照しつつ、ザルツブルク当時の通奏低音の慣習や音域について知識を持つことが重要です。近年の古楽演奏の潮流により、原典的実践(historically informed performance)に基づく演奏も多く出てきています。
おすすめ録音と聴きどころ
K.89は比較的短い作品のため、複数の録音で扱われることが多く、録音ごとに解釈の差が出やすい作品です。以下の点に注目して聴くと良いでしょう。
- 音色の透明さ:合唱と室内オーケストラのバランス、オルガンの扱い。
- テンポと表情:第1部の活気と第2部の静謐さの対比。
- テキスト感:母音の伸ばし方、子音の明瞭さが典礼音楽としての説得力に直結します。
モーツァルトの宗教曲体系における意義
K.89は、後に書かれる壮大なレクイエムやミサ曲と比べると小規模ですが、モーツァルトが宗教音楽においても並外れた旋律性と和声感覚を自然に発揮していたことを示します。初期の短いキリエや小ミサは、作曲家としての実用性と即興的な創造力が融合した場であり、モーツァルトの音楽性の基盤を理解するうえで重要です。
聴きどころのまとめ(ガイド)
- 冒頭の和声進行:主題がどのように提示されるか。
- Christe部の歌謡性:旋律線の歌いやすさ、フレーズ感。
- 終結部のまとめ方:短い曲だが終始の処理に作曲意図が現れる。
結語
K.89は短く簡潔でありながら、若き日のモーツァルトの様式的特徴と宗教音楽に対する実務的対応力をよく伝える作品です。合唱団や指揮者、聴衆にとっては、テキストの明瞭さと旋律の自然さを味わう好機となります。本稿が、K.89を聴く際や演奏の準備をする際の手がかりになれば幸いです。
エバープレイの中古レコード通販ショップ
エバープレイでは中古レコードのオンライン販売を行っております。
是非一度ご覧ください。

また、レコードの宅配買取も行っております。
ダンボールにレコードを詰めて宅配業者を待つだけで簡単にレコードが売れちゃいます。
是非ご利用ください。
https://everplay.jp/delivery
参考文献
- IMSLP: Kyrie in G major, K.89 (Mozart)
- Neue Mozart-Ausgabe(オンライン・カタログ)
- Oxford Music Online / Grove Music Online(モーツァルト項)
- AllMusic(作品解説・録音案内)
投稿者プロフィール
最新の投稿
ビジネス2025.12.29版権料とは何か|種類・算定・契約の実務と税務リスクまで徹底解説
ビジネス2025.12.29使用料(ロイヤリティ)完全ガイド:種類・算定・契約・税務まで実務で使えるポイント
ビジネス2025.12.29事業者が知っておくべき「著作権利用料」の全体像と実務対応法
ビジネス2025.12.29ビジネスで押さえるべき「著作権使用料」の全知識――種類、算定、契約、税務、リスク対策まで

