モーツァルト「キリエ ニ短調 K.90」— 若き天才の宗教音楽に見る戲法と深淵
はじめに:K.90の位置づけ
モーツァルトのK.90(しばしば異表記としてK.73fと併記されることもあります)は、彼の初期の宗教音楽の中に位置する短い「キリエ」作品です。長大なミサ曲の一部というよりは、独立したキリエの設定として知られ、若き日のモーツァルトが教会音楽の伝統と自身の劇的表現をどのように統合していたかを示す好例になっています。本稿では史的背景、楽曲の音楽構造と特徴、演奏と解釈の視点、楽譜と版の問題、そして現代における聴きどころと実演上の注意点までを詳述します。
史的背景:いつ、どのようにして生まれたか
K.90は1770年代前半、モーツァルトがまだ十代の頃に作曲されたと推定されます。正確な成立年は資料により見解が分かれますが、作曲当時のモーツァルトはザルツブルク教会音楽の伝統、イタリア語唱法、さらに当時入手可能だった対位法の技法を吸収しており、これらが折り重なってK.90の表情に表れています。教会の典礼用に位置づけられたこれらの短いキリエは、格式ある祈りのテキストに対してどう音楽的ドラマを与えるかが重要な課題でした。
編成と楽器法
K.90の標準的な編成は合唱(SATB)と弦楽合奏、チェンバロ/オルガンの通奏低音という、当時の典礼音楽における典型的な配置です。独唱パートが目立つ長大なミサとは異なり、合唱の扱いが中心で、しばしば合唱による均整の取れた対位法と短い独立したフレーズが交互に現れます。弦と通奏低音は和声的支えを与えつつ、モーツァルト特有の透明なテクスチャを作り出します。
調性と表現:ニ短調の意味
ニ短調という調性は、古典派期において「厳粛」「悲嘆」「荘重」といった色合いを帯びることが多く、キリエという祈りのテキストとよく結びつきます。K.90では短いながらもニ短調の持つ陰影を活かし、開頭の重々しい和音から次第に呼吸を作るように動機が展開します。モーツァルトはここで調性感を単なる感情表示以上の構造的要素として扱い、短い時間で劇的な対比を生み出しています。
形式と楽曲構造の解析
曲は典型的な「キリエ」のテキスト構造(Kyrie eleison — Christe eleison — Kyrie eleison)に対応して段落的に分割されます。ただし、K.90では各節が短く集約されており、反復と変奏の技法を通じて統一感を持たせています。以下に主な構造的特徴を挙げます。
- 導入部:重い和音と短い動機による、荘厳な提示。
- 模倣的処理:合唱による対位法的な模倣(フガート的要素)が部分的に現れ、古典的な対位法の影響が感じられる。
- コントラストの導入:Christeの箇所では、一時的に調性やテクスチャが明るくなり、緩和を作ることで祈りの二重性(嘆願と懇願)を表現。
- 終結部:冒頭動機の回帰と短いカデンツァ的閉止で締められる。
旋律と動機の特徴
モーツァルトの幼年期から青年期にかけての宗教曲には、オペラ的な感性がしばしば浸透します。K.90でもその傾向は認められ、合唱線は歌いやすく、歌詞のアクセントや語尾に対する明確な処理がなされています。短い動機が反復されることで、祈りの切迫感と持続性が音楽的に表現されます。また、ニ短調のスケールを効果的に用いた下降進行や属和音への強い導きが、感情の焦点を明確にします。
和声と対位法
K.90では古典派的和声進行が基本ですが、局所的に斬新な和声的動きや非和声音の扱いが見られます。特にフガート的な模倣箇所では対位技法が用いられ、師匠筋から学んだ教義的な対位法の訓練が窺えます。これらは単に学習の産物というだけでなく、テキストの意味を深めるための効果的な手段として機能しています。
テキストと表現の対応
「Kyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)」の短い繰り返しは、切実な懇願を示します。モーツァルトは繰り返しを単調にしないために、テクスチャ、調性、ダイナミクスを巧みに変化させます。Christeの部分は通常、より穏やかで内省的に扱われるため、ここでの音楽的処置(和声の緊張の一時的緩和、旋律の歌い回しの変化)は実に意味ある選択です。
演奏上の留意点(合唱指導・指揮者向け)
演奏する際のポイントは以下の通りです:
- テキストの明瞭性:ラテン語のアクセントと語尾を明確にし、語感によるフレージングを重視する。
- 対位法の輪郭:模倣箇所では各声部の線を独立して歌わせ、混濁を避ける。
- ダイナミクスの細かい配分:小規模曲ゆえに微妙な強弱の変化が全体の印象を左右する。
- バロック/古典の発想の融合:通奏低音の役割を意識しつつ、弦楽のアーティキュレーションを軽やかに保つ。
史料と版の問題
K.90の原典譜は散逸や断片的な写本が混在する場合があり、編集者によって版の扱いが異なることがあります。現代の演奏では、新モーツァルテウム版(Digital Mozart Edition, Neue Mozart-Ausgabe)などの学術版を参照することが推奨されます。インターネットアーカイブやIMSPLなどで写本や公刊譜を比較検討すると、細かな装飾や写譜者の書き間違いなどを把握でき、より史実に近い演奏判断が可能になります。
聞きどころ:この曲をどう味わうか
短い曲だからこそ、繰り返されるモチーフの微妙な変化、合唱と弦の対話、ニ短調の陰影が持つ心理的効果に注目してください。特に冒頭の和音が提示する緊張と、Christeでの短い安堵、最後に戻ってくる冒頭動機の解決の仕方には、モーツァルトの成熟前夜の作曲術が凝縮されています。
モーツァルトの宗教作品群との比較
K.90はモーツァルトのより大規模なミサ曲(例えばK.427の『ミサ・長調』など)と比べると簡潔ですが、両者に共通するのはテキストへの忠実さとドラマ性の両立です。K.90のような短い楽曲は、モーツァルトが後年に達成する大規模な宗教曲の萌芽を示していると見ることができます。
現代の受容と実演機会
K.90は専門的な宗教曲全集や「モーツァルト全集」に収録されることが多く、礼拝音楽のプログラムや合唱団のリサイタルで演奏される機会があります。短いことを利点に、他の小品と組み合わせたセットリストに組み込みやすく、古楽器アンサンブルから現代の混声合唱まで幅広い演奏形態が可能です。
結論:若きモーツァルトの祈りの形
K.90は短いながらもモーツァルトの宗教音楽における技巧と感性の両面を示す有力な作品です。ニ短調の厳粛さ、合唱と器楽のバランス、対位法的処理と歌唱性の両立——これらが短い時間の中で高密度に表現されており、モーツァルトの作曲技術の早期成熟を示しています。聴く者は短時間で深い祈りの情景に連れ去られるでしょう。
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参考文献
IMSLP: Kyrie in D minor, K.90 (Mozart)
Neue Mozart-Ausgabe / Digital Mozart Edition(モーツァルテウム財団)
Oxford Music Online (Grove Music Online) - Mozart entries
The Mozart Project
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