バッハ『われらが神は堅き砦(BWV 80b)』──成立史・楽曲構造・演奏上の魅力を読む
序:『われらが神は堅き砦』という主題
「われらが神は堅き砦(Ein feste Burg ist unser Gott)」は、マルティン・ルターが作詞(・作曲とも伝えられる場合がある)した宗教改革の代表的な聖歌で、プロテスタント信仰の象徴ともいえる作品です。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685–1750)はこの聖歌を生涯にわたり素材として用い、最も大規模に扱ったのがカンタータ BWV 80 系列です。本稿では、とくに「BWV 80b」とされる版に焦点を当て、成立の経緯、音楽的特徴、解釈上のポイント、そして現代における上演・録音の問題を掘り下げます。
版の履歴と成立(概観)
BWV 80 と呼ばれる作品群は単一の完成稿ではなく、複数の版が存在し、学界や編集者の間で版番号の割り当てや成立年について議論があります。一般には以下のように整理されることが多いです。
- 初期版本(しばしば BWV 80a と表現):ヴァイマール時代など比較的早い時期に成立した先行作品を指す。
- BWV 80b(中間版):ライプツィヒ初期、1723 年前後の初期ライプツィヒ時代に作曲・再編された形と考えられる版。この版はより祝祭的な配列と拡張を伴う。
- 最終版(一般に BWV 80 として知られる完全版):さらに手が加えられた最終形態で、後年の改訂を反映する場合がある。
重要なのは、BWV 80b はただの写しや単純な再演ではなく、楽器編成の変更、合唱と独唱の扱い、コラール主題の配置などに実質的な再構成が見られる点です。ライプツィヒに赴任したばかりの 1723 年以降、バッハは教会暦に即した新しいカンタータ群の整備を行っており、BWV 80 系列もその中で複数回にわたって手が入れられました(成立年については諸説あります)。
テクストと神学的意味
原歌はルターの同名賛美歌で、その歌詞は神を「堅き砦」として信仰の拠り所に置くメタファーに満ちています。バッハは単に賛美歌の旋律を引用するだけでなく、詞のキーワード(敵、救い、信仰、希望等)を音楽的モチーフや付随する伴奏形、テクスチャの変化によって表象することにより、テキストの神学的メッセージを深めます。これはバッハのコラール・カンタータに共通する手法であり、BWV 80b でも顕著に聞かれます。
楽曲構造と主要楽想(BWV 80b の特色)
BWV 80 系列の核となる要素は、コラールの旋律を「カントゥス・フィルムス(cantus firmus)」として用いることです。BWV 80b において特徴的なのは、次のような処理です。
- 祝祭的な冒頭合唱:コラール旋律が長い音価でソプラノに提示され、下声部やオーケストラが対位法的・リトルネル的(リトルネット? ritornello 的)に展開する、いわゆるコラール・フンタジア的な書法。
- 金管群と打楽器の使用:トランペットやティンパニの用法が、宗教改革の祝祭性・勝利のイメージを強調する。
- アリアとレチタティーヴォの対比:個人的な信仰告白や神学的反省が独唱パートで描かれ、合唱は共同体的な応答や総括を担う。
- 終結のコラール(四声コラール):教会実践に則した四声のコラールで締めくくられることが多く、会衆に向けた共感的な結びを提供する。
BWV 80b は特に冒頭合唱の編曲(オリジナルの素材を拡張し、器楽リフレインを効果的に配する等)により、より大規模でフォーマルな構造を持つ点が注目されます。
対位法とコラールの統合
バッハは既存のコラール旋律を対位楽想と結びつけ、旋律をそのまま露骨に提示する局面と、旋律の断片を動機として発展させる局面とを使い分けます。BWV 80b の冒頭では、コラールが「確固たる基盤」として位置づけられ、その上で下位声部や器楽が緊張感ある対位を展開します。この相互関係は「堅き城(砦)」というテキストの意味と密接に響き合い、音楽的なレトリックとしての強さを生みます。
表情(アフェクト)と語りの技法
バッハはバロック時代の音楽修辞学(affect)を駆使して、テキストのキーワードに即した音響的描写を行います。BWV 80b では以下のような音楽的表現が観察されます。
- 「敵(Feinde)」や「戦い」を示す短い跳躍や激しい装飾。
- 「救い」「確信」を示す長い音価の旋律や安定的な和音進行。
- コラール旋律の反復と強調による共同体的確信の表明。
これらは当時の聴衆にとって直感的に理解されるレトリックであり、バッハの宗教音楽が持つ説得力の一端です。
版による演奏上の留意点
BWV 80b を演奏・録音する際には、どの版を用いるか、どの程度原典主義に忠実であるかが重要です。具体的には以下の点が議論になります。
- 版選択:BWV 80a / 80b / 最終版のどれを基にするか。楽器編成や冒頭合唱の扱いが異なる。
- 編成:トランペットやティンパニの使用、弦や木管の人数配分、声部の人数(ヴィブラートの使用や合唱人数)など。
- 調性と古楽ピッチ:A=415Hz での演奏と現代ピッチ(A=440/442Hz)での演奏による色彩の違い。
- レチタティーヴォの様式:通奏低音主導の伴奏か、楽器的な obbligato を含めるか。
これらの選択は音色・力学・教義表現に直結するため、指揮者と合唱団・オーケストラの間で慎重なコンセンサスが必要です。
代表的録音と近年の評価
BWV 80 系列は多くの指揮者・アンサンブルにより録音されており、解釈の幅も広いです。以下は一般に評価の高い演奏例(順不同)です。
- Nikolaus Harnoncourt / Concentus Musicus Wien(歴史的演奏慣習を反映したもの)
- John Eliot Gardiner / English Baroque Soloists(鮮烈なテクスチャと活力)
- Masaaki Suzuki / Bach Collegium Japan(透明感のある古楽解釈)
- Helmuth Rilling(現代ピッチに近い伝統的解釈)
各録音は版や編成選択が異なるため、比較鑑賞は BWV 80b の本質理解に役立ちます。
教育的・実践的意義
BWV 80b の学習は、バッハがコラール素材を如何にして大規模宗教音楽へと転換したかを学ぶ格好の教材です。和声進行・対位法・声部書法・リズム処理・テクスト音楽学の総合的理解が求められるため、合唱指導や大学のカンタータ研究の場で頻繁に扱われます。また、宗教改革の歴史的文脈と結びつけて学ぶことで、音楽史・教会史の横断的理解も深まります。
終章:BWV 80b の持つ普遍性
『われらが神は堅き砦』というテーマはバッハの時代のみならず、現代にも強い共鳴を持ちます。BWV 80b に見られる音楽的・神学的な折衷は、個人の信仰と共同体の祈りを音楽的に統合するバッハの手腕を示しています。版の差異や演奏上の選択は解釈の幅を広げ、逆に言えば、どの版を選ぶかで聴衆に伝わるメッセージは変容します。したがって演奏者は史料的配慮と芸術的判断を両立させる必要があるでしょう。
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参考文献
- Wikipedia: Ein feste Burg ist unser Gott (BWV 80)(作品史の概説)
- Bach Cantatas: BWV 80(詳細な版歴・譜例・録音一覧)
- Bach Digital(バッハ作品の原典資料・写本情報、検索ページ)
- IMSLP(国際楽譜ライブラリ)(スコア・写本に関する公開資料の参照先)
- Oxford Music Online / Grove Music Online(バッハ研究における学術的論考、要登録)
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