バッハ「ゴルトベルク変奏曲 BWV 988」——構造・解釈・名演の深掘り
作品名と成立
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《ゴルトベルク変奏曲》BWV 988は、1741年に刊行された鍵盤曲集のひとつで、一般に「クラヴィーア練習曲(Clavier-Übung)第4巻」として出された作品です。表題には「アリアと多彩な変奏(Aria mit verschiedenen Veraenderungen)」とあり、1つのアリアとそれに続く30の変奏、最後にアリアの再現(da capo)という大規模な構成をとります。
献辞はロシアの在ヴィルニアの貴族、ヘルマン・カール・フォン・キーゼルリンク伯爵(Count Keyserlingk)あてで、当時伯爵の宮廷に仕えていた若いチェンバロ奏者ヨハン・ゴルトベルク(Johann Gottlieb Goldberg)のために書かれたという有名な逸話は、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(Forkel)が1802年に伝えた話に由来します。ただしこの“眠れぬ伯爵を慰めるため”という話は二次資料に基づく逸話であり、史料批判上は補助的に扱うべきとされています。
全体の構成と基本的特徴
作品は次のように整理されます:
- 序奏的な位置づけに近いアリア(G長調)
- アリアに基づく30の変奏(変奏は通し番号で1から30)
- 最後にアリアの再現(アリア・ダ・カーポ)
重要な点は、この変奏が“ベース・オスティナート(ground bass)”ではなく、アリアの和声進行(ハーモニック・パターン)と旋律素材を基にした通奏的変化であることです。バッハは和声の骨格を変化させ、各変奏に異なる様式と技法を与えることで、多彩な音楽世界を展開します。
「三の構造」とカノンの配置
形式上の肝は“3のグループ”とカノンの配置にあります。30の変奏は3つずつのまとまりに分けることができ、3つごとに第3、第6、第9……第27変奏が“カノン”になっています。しかもこれらのカノンは段階的に変化し、次のように単位律の間隔を一段ずつ上げることで構成されています(3=1度のカノン、6=2度のカノン、9=3度……27=9度のカノン)。この数的構成は形式的な遊びであると同時に、作品全体の大きな秩序感を与えます。
主要な変奏の特色(聞きどころ・分析)
ここでは代表的な変奏を取り上げて、その音楽的意味を示します(順序に忠実に簡潔に述べます)。
- 変奏3(カノン a 1):統制された対位法の示例。元のアリア素材をきわめて明瞭に二声で扱います。
- 変奏9(カノン a 3)〜15(カノン a 5):調性とリズムの変化により、古典的な舞曲風の要素やトッカータ的な技巧が交錯します。
- 変奏16:しばしば「フーガ的」あるいは「フーガ前段」と評される構成的な濃度があり、中間地点での緊張を高めます。
- 変奏25(アダージョ):作品中もっとも内省的で静謐な変奏。しばしば精神的な核心と見なされ、音の長さや休符の扱い、和声の静止が聴き手に深い感銘を与えます。
- 変奏30(クォドリベット):民謡風の重ね合わせ(quodlibet)で締めくくられます。これはバッハが庶民的な旋律素材をユーモラスに取り入れる伝統に立ちます。
最後にアリアが再現されることで、全体は円環的に閉じられます。バッハはここで聴き手に“始めに戻る”ことの美学を提示します。
演奏史と楽器論争(チェンバロかピアノか)
初演当時は当然チェンバロ(あるいはクラヴィコード)を念頭に書かれた作品ですが、ピアノの発達以降、多くのピアノ演奏が生まれ、現在に至るまで演奏楽器の選択は解釈上の重要な論点になっています。チェンバロは細やかなアーティキュレーションと二段鍵盤を生かした手交差やカデンツァの効果を得意とします。一方ピアノはダイナミクスの対比や長いサステインを利用できるため、現代的な表現の幅を広げます。
演奏上の習慣としては、各変奏の反復(第1部・第2部の反復)を行うかどうかが議論されます。近代の名演奏家の間でも反復を省略する例(グレン・グールド1955年録音)と、ほぼすべての反復を踏襲する例(歴史的演奏・一部の現代ピアニスト)があります。反復の有無は曲の持続時間や構成感に大きな影響を与えます。
代表的録音と解釈の対比
20世紀・21世紀を通じて数多くの演奏が録音され、解釈の多様性を示しています。代表的なものを挙げると:
- グレン・グールド(1955年/1981年)——1955年盤は非凡なテンポ感と機知に富んだ表現で一躍この作品を一般に知らしめました。1981年盤はより内省的で叙情的です。両者の対照は解釈の幅を示す好例です。
- ワンダ・ランドフスカ——チェンバロ復興運動の一翼を担った奏者で、歴史楽器的視点の先駆者的録音があります。
- タチヤーナ・ニコラーエワ、アンジェラ・ヒューイット、アンドラーシュ・シフ、マレー・ペライア等——それぞれピアノ/チェンバロ・アプローチで独自の読みを展開しています。
どの演奏もそれぞれの思想(速度、反復、装飾、ペダリング/チェンバロ操作)に基づき、聴き手に異なる物語を提示します。
演奏・解釈の実践的ポイント
- 反復の扱い:楽曲の大きなスパンを見据え、どの変奏で新たな物語を提示するかを考えて反復を選択する。
- 装飾と即興性:バロックの伝統に従い、適切な装飾を施すこと。特にアリアや緩徐変奏では装飾が表現の鍵になる。
- カノンの明瞭さ:対位法が構成原理の一つなので、声部の輪郭と対位の入り方を明確にする。
- 楽器の特性を活かす:チェンバロではタッチと二段鍵盤の利用、ピアノではペダルとダイナミクスの制御が重要。
聴きどころ(初心者〜通好みまで)
初心者はまずアリアの美しい旋律と最後に戻る円環性を意識して聴くと良いでしょう。中級者以上は変奏群における対位法的技巧(特にカノン)や変奏ごとの舞曲的性格の変化、変奏25の深い静けさなどに注目すると、作品の深さが伝わります。上級の聴き手は数列的な配置や形式論的な読み、バッハが示す神学的・数秘的寓意の痕跡まで検討することができます。
まとめ
ゴルトベルク変奏曲は、単なる技巧展示を超えて、バッハの対位法的探究、和声の変容、そして形式の巧みな計算が結実した巨大な芸術作品です。一見単純なアリアの和声進行を基に、30種の異なる音楽的世界が展開されるその構造は、演奏家・聴衆双方に終わりなき発見を与えます。チェンバロかピアノか、反復を取るか否か――いかなる解釈も作品の多面性を照らす一方の光であり、聴き手は複数の録音を比べることで新たな側面を発見するでしょう。
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参考文献
- IMSLP - Goldberg Variations, BWV 988(楽譜)
- Bach Cantatas Website - Goldberg Variations 解説
- Christoph Wolff, Johann Sebastian Bach(Yale University Press)
- Oxford Music Online(Grove Music Online) - 検索ページ(記事は購読が必要)
- Wikipedia - Goldberg Variations(参考用の概説)
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