バッハ 無伴奏チェロ組曲第5番 BWV1011:深掘りガイド — スコルダトゥーラと演奏解釈の鍵

序論:BWV1011の位置づけと魅力

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 BWV1011は、6曲からなる無伴奏チェロ組曲(BWV1007–1012)のうちの一つであり、音楽史上でも特異な魅力を放つ作品です。調性、わずかな楽譜上の指示、そして演奏上の特殊な工夫(スコルダトゥーラ=弦の変則的な調弦)によって、他の組曲とは異なる色彩と演奏上の課題を呈します。本コラムでは、作曲時期・写本状況といった史料的背景から、楽曲構成と和声・技法の分析、演奏実践上のポイント、さらに現代における演奏・録音の傾向まで、できる限り事実に基づいて詳述します。

作曲時期と写本――史料に基づく背景

無伴奏チェロ組曲全曲に関して、バッハ自身の自筆譜(自筆譜は現存しない)が見つかっていない点は重要です。現在知られる主要な写本はいくつかの筆写者によるもので、なかでもアンナ・マクダレーナ・バッハ(バッハの2度目の妻)や18世紀の別の筆写者による写本が早期の主要資料として扱われています。これらの写本資料を基に、研究者は組曲群をおよそヴァイマル–ケーテン期(特にケーテン在任中、1717–1723年頃)に成立した可能性が高いとしていますが、確定的な作曲年は示せません。

第5番に関しても同様で、写本ごとに細かな筆写ミスや装飾の差異、さらには指示の欠落があり、校訂版や演奏版ではそれらを比較して最終稿を決定しています。したがって、楽譜上の一部表記(装飾音や音価、場合によっては移弦やフレージング指示)は現代演奏者が史料批判的に判断して補う必要があります。

楽曲構成と第5番の特徴

6つの無伴奏チェロ組曲はおおむね同一の舞曲的構成を踏襲しています(Prelude、Allemande、Courante、Sarabande、2つの小舞曲(Menuet、Bourrée、Gavotteなど)およびGigue)。第5番 BWV1011 も基本的にはこの形式に従いますが、いくつかの特徴がしばしば指摘されます。

  • 調性と色彩:ハ短調という調はチェロの低域と中域の響きに非常に適しており、陰影の強い色合いを生み出します。第5番は哀感と厳粛さを併せ持つ音楽的言語を有しています。
  • スコルダトゥーラの採用:第5番は演奏上の重要な特徴として、上(第4)弦の調弦を下げるスコルダトゥーラが伝統的に用いられてきました。これは特定の和音進行や開放弦の共鳴を得るための手段であり、独特の音響効果をもたらします(後述)。
  • テクスチュア:第5番の前奏曲や舞曲では、チェロ一挺で和音的・対位的に響かせる場面が多く、和声進行の把握とボウイングによる声部分離が演奏の要です。

スコルダトゥーラ(調弦変化)の意味と実際

第5番で用いられるスコルダトゥーラの慣習は、一般には最も高い音の弦(現代標準のチューニングではA弦)を1全音下げてGにする、というものです。標準的な現代チェロの開放弦は低い方からC–G–D–Aですが、スコルダトゥーラではC–G–D–Gとなり、これにより楽譜上に記された音が実音より高くなる(演奏者は指板上の押さえ方で音程を合わせる)状況が生まれます。

スコルダトゥーラを採用する理由は複数あります。

  • 和声的利便性:ハ短調の和音や特定の二重奏的な響きを作る際に、開放弦の共鳴を利用して密度のある和音を鳴らしやすくする。
  • 音色と共鳴:開放弦を用いることで弦全体の共鳴が強まり、楽器全体の響きが豊かになるため、厳粛で深い色彩が得られる。
  • 技巧的要求の緩和:ある和音や跳躍が指にとって物理的に困難な場合、調弦を変えることで同じ指使いで容易に実現できることがある。

ただし、現代におけるスコルダトゥーラの採用は演奏者の判断に委ねられることが多く、ピリオド奏法(歴史的奏法)を研究する奏者は原典の意図を重視してスコルダトゥーラを用いる一方で、モダン・チェリストの中には標準チューニングで演奏する者も少なくありません。スコルダトゥーラを用いる場合、楽器の張力やバランスが変わるため、演奏直前に十分な調弦と慣らし運弓を行う必要があります。

各楽章の解説(簡潔な分析)

以下は主要楽章の聴きどころと演奏上の留意点です。

  • Prelude(前奏曲):自由な前奏的性格を持つ場面と、部分的にポリフォニックな処理が混在します。第5番の前奏曲ではスコルダトゥーラによる低音の共鳴を活かした和音的な展開や、内声の独立が際立ちます。アーティキュレーションとテンポ感により、前奏曲が即興的かつ構築的に聞こえるかが決まります。
  • Allemande(アレマンド):穏やかな2拍子の舞曲。フレーズの呼吸と装飾の処理が重要です。ハ短調の落ち着いた色調を保ちながら、内声の動きを明確にすることが求められます。
  • Courante(クーラント):3拍子系の舞曲で、軽快さと推進力が必要です。第5番のクーラントではリズムの刻みと流麗さのバランスが聴きどころです。
  • Sarabande(サラバンド):遅めの3拍子で、深い表現力が問われる楽章。ハ短調のサラバンドは特に内面的で瞑想的な表情が求められ、テンポやポルタメント、音楽語法の扱いによって表情が大きく変わります。
  • 小舞曲(Menuet など):対照的に軽妙で踊りの要素を持つ楽章。第5番では装飾や対位的要素が取り入れられることがあり、前後の楽章とのコントラスト作りに寄与します。
  • Gigue(ジーグ):組曲の締めくくり。技巧的な跳躍や早いパッセージが特徴で、全曲の総括的な役割を果たします。

演奏実践:音色、弓使い、装飾、テンポ決定

第5番を演奏する際に実務的に重要な点を挙げます。

  • 弓圧と接触点の調整:和音的に響かせる場面では弓圧をやや強めにして音の厚みを出し、対位的な内声を浮き上がらせる場面では接触点を指板寄りにして柔らかくするなど、場面ごとの弓のコントロールが必須です。
  • テンポ設定の根拠:舞曲ごとに伝統的なテンポ感(サラバンドは遅く、クーラントは速めなど)を尊重しつつ、楽章間の説得力ある流れを作るために、演奏者は統一的な呼吸感を持つことが望まれます。
  • 装飾音の取り扱い:原典に明記のない装飾は、時代奏法に基づいて慎重に補うべきです。バロック時代の装飾語法を学んだ上で、フレーズの意味を損なわないように選択します。
  • スコルダトゥーラ採用時の注意点:前述の通り調弦変化は楽器の張力を変えるため、使用する弦の種類や楽器との相性を確認し、必要ならば弦高や駒の位置の微調整を考慮します。

史的演奏と現代的解釈の対比

20世紀以降、無伴奏チェロ組曲は演奏史において二重の潮流を生みました。一方はパブロ・カザルス(Pablo Casals)に代表される“近代チェロ”による深い個人的表現を追求する伝統、もう一方はアネル・ビルスマや若手のピリオド奏者による歴史的奏法(原典に近い弓・ガット弦・バロックボウなど)を志向する流れです。第5番はスコルダトゥーラという点もあり、ピリオド奏法での採用がしばしば試みられてきました。どちらのアプローチにも正当性があり、楽曲の内実を照らす異なる解釈を提供します。

録音・演奏例と研究的関心

第5番は全曲セットでの演奏・録音の一部として聴かれることが多いですが、単曲として取り上げられることもあります。演奏史上の重要人物(例:P. Casals)による普及の影響は大きく、以降の名演が多く残されています。近年は歴史的奏法研究の進展に伴い、スコルダトゥーラやバロック・ボウによる演奏が増え、音色やアゴーギクの違いによって第5番の“顔”が変わることが改めて注目されています。

演奏者への実践的アドバイス(まとめ)

  • 史料を複数比較する:写本ごとの小さな差異が解釈を左右するため、少なくとも主要な写本や校訂版を参照すること。
  • スコルダトゥーラの採否は曲想に基づいて決定する:深い共鳴と古風な響きを狙うなら採用を検討、現代的な明瞭さを優先するなら標準調弦でも良い。
  • 楽章間の流れを意識する:組曲は単独楽章の集合以上の意味を持つため、前後の対比とつながりを意識してテンポ・表現を構築する。
  • 録音を比較して学ぶ:時代ごとの主要録音(近代派、ピリオド派)を聴き、どの技法が自分の解釈に合うか検討する。

終わりに:第5番がもたらすもの

無伴奏チェロ組曲第5番 BWV1011 は、チェロという楽器の物理的特性とバロック的表現が交差する場所に位置する作品です。スコルダトゥーラという仕掛けを通じて得られる独特の共鳴、美しい内声の動き、舞曲形式に潜む深い表情は、奏者と聴衆にとって永続的な魅力を放ちます。史料研究と演奏実践を往復させることによって、この作品の新たな側面が今後も見出されるでしょう。

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参考文献