ABステレオの完全ガイド:原理・セッティング・用途とモノ互換性の実践テクニック
ABステレオとは何か — 定義と基本イメージ
ABステレオ(エービーステレオ)は、いわゆる「スペースドペア(spaced pair)」と呼ばれるステレオマイキングの代表的な手法の一つです。2本のマイクを左右に離して配置し、主に到達時間差(位相差)と音圧レベル差を利用してステレオ感を得ます。使用するマイクは指向性の異なるものがあり、特にオムニ(無指向性)を用いると自然で広がりあるステレオイメージが得られるのが特徴です。
原理:時間差(ITD)とレベル差(ILD)、および聴覚効果
ABステレオの基本原理は、人間の左右の耳に到達する音の時間差(Interaural Time Difference: ITD)と音圧差(Interaural Level Difference: ILD)を再現することにあります。マイクを物理的に離すことで音源からの到達時間差が生じ、その結果、左右のチャネルに微妙な位相差が発生します。これにより左右の定位感が生まれます。
加えて、Haas効果(先行音効果)や両耳による聴覚定位のメカニズムがステレオ感に影響します。近距離の時間差やレベル差は定位を決定し、わずかな差でも「どこから来ているか」を聴取者に伝える働きがあります。
ABステレオと他のステレオ手法との比較
XY(コインシデント): 2本のカーディオイドをクロスして配置する手法。位相差がほとんどなく、モノラルへの互換性に優れるが、ステレオの広がりはコンパクトになりがち。
ORTF(近接ペア): 17cmの間隔と110度の角度を持つ近接ペアで、自然な定位と十分な広がりのバランスを狙った手法。
Blumlein(ブラムライン): 90度で交差したフィギュア8(双指向性)を用いる。音場の位相情報を立体的に取るが反射や音場の影響を受けやすい。
AB(スペースド): 物理的な間隔で時間差を積極的に利用するため、広いステレオイメージや前後感、会場の余韻を得やすいが、モノラルでの位相キャンセルに注意が必要。
マイクの選び方 — 無指向性か指向性か
ABには主にオムニ(無指向性)とカーディオイド/スーパーカーディオイドを使う場合があります。選択は録る対象と目的によります。
オムニ: 周囲空間(残響)を自然に取り込み、滑らかで広がりのあるステレオを得やすい。定位はやや曖昧になりやすいが、管弦楽や合唱、ホール収録など空間描写を重視する場面で有利。
カーディオイド系: 指向性があるため不要な反射や近接する雑音を削りつつ、やや締まった定位を得られる。ドラムのオーバーヘッドや室内の小編成などで使われる。
具体的な配置と距離の目安
ABの最大の特徴はマイク間距離(スパン)を変えることでステレオ幅や定位感を調整できる点です。典型的な目安は次の通りです(あくまで出発点としての目安)。
近距離ステレオ(小編成、アコースティック楽器): マイク間隔20〜50cm。定位は比較的明瞭で、楽器を近くから捉えつつステレオ感を出す場合に適す。
中距離ステレオ(室内アンサンブル、ポップス): 50〜150cm。より広いステレオイメージとホールの空気感を両立できる。
ワイド/ホール収録(オーケストラ、合唱): 1m〜数メートル。会場の残響と音場全体を捉えるための大間隔。モノ変換時の干渉に注意が必要。
高さについては、通常音源の重心よりやや高め(耳の高さ〜天井方向)に設置すると自然なバランスが得られることが多いです。オーケストラなら奏者の頭上約2〜3mに置くなど、ケースバイケースです。
楽器・編成別の実践ガイド
オーケストラ: ステージ奥行きとホール残響を重視するため、ABでのワイド配置がよく使われます。指揮者の前方や後方にスペースを取って左右にマイクを置き、全体のバランスを補助マイク(スポット)で整えます。
合唱: 声の束感と空間の豊かさを取るにはオムニのABが有効。人数が多い場合は高めに広く配置します。
アコースティックギター/ピアノ: 小編成ではマイク間隔を20〜50cm程度にして近接感を保ちつつステレオ感を確保。ピアノの内部に1本、外部に1本というスポット+ABのハイブリッドも有効です。
ドラム: オーバーヘッドにABを用いると広いドラムキットとルーム感が得られます。キックやスネアは近接マイクで補うのが一般的。
モノラル互換性と位相対策
ABの弱点は左右の時間差による位相干渉で、モノに合成したときに周波数帯のキャンセル(打ち消し)が発生し得ることです。放送やストリーミングでモノ再生される可能性がある場合は特に注意が必要です。
対策としては次の方法が有効です。
マイクの位置調整で位相関係を改善する。耳でチェックしながら少しずつ距離を変える。
録音後にDAWで左右の位相をチェックし、必要なら片チャネルを数サンプル微調整(タイムアライメント)する。
低域の位相問題が目立つ場合はローカットを行う。特にサブ100Hz帯域は左右差によるキャンセルの影響が大きい。
混ぜ方でモノに合成した際のチェックを必ず行い、問題があれば別途モノ用のミックス(補正)を用意する。
実践的なセッティング手順
まず録音する空間を聞き、どの程度のホール感を取り込みたいか決める。
マイクを左右対称に設置し、目標の楽器群に向けて微調整する。リスナー位置を意識して配置すると定位感が向上する。
リファレンス音源やメトロノームを使いながらモニターして、定位や位相の問題をチェックする。
必要に応じて高さや間隔を変え、複数のテイクで比較する。録音後は必ずモノ変換でまとめてチェックする。
ポストプロダクションでの扱い方
録音後はDAW上でステレオ幅の調整、位相整列、EQで不要な周波数帯を整えるなどを行います。ステレオイメージャーやMS処理を併用することで、中央(モノ)成分とサイド成分を個別に処理し、モノ互換性を保ちながら広がりを維持することができます。
よくある誤解と注意点
「AB=いつでもワイドで良い」ではない: 広すぎると定位が曖昧になり、モノ互換性で問題が出る。
「オムニが万能」でもない: オムニは自然だが制御性が低く、雑音や不要反射を多く拾う可能性がある。
「距離を伸ばせば良い」わけではない: 間隔を大きくするとステレオ感は広がるが、位相干渉(特に中高域)と音像の欠落が生じることがある。
まとめ — いつABを選ぶべきか
ABステレオは空間性やステレオの幅を重視する場面で非常に有効な手法です。オーケストラや合唱、ホール録音、アコースティックなライブ収録など、自然な広がりを重視する録音で特にその効果を発揮します。一方で、モノ互換性や位相の制御が重要な現場では慎重な配置と後処理が求められます。実践ではABを基準にXYやORTF、MSと組み合わせることで柔軟なマイキング戦略が構築できます。
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