グリッドコンピューティングとは何か:歴史・五層アーキテクチャ・セキュリティとクラウドとの差異・現状
グリッドコンピューティングとは — 電力網になぞらえた分散リソースの協調活用
グリッドコンピューティング(以下「グリッド」)は、地理的に分散したコンピュータ資源(計算ノード、ストレージ、データベース、センサーなど)を、あたかも単一の仮想的な計算資源のように統合して利用するための概念と技術群です。名称は電力網(power grid)に由来し、利用者が裏側の物理的な資源配置や所有権を意識せずに「必要なときに必要な能力を利用できる」ことを目指します。
歴史と背景
「グリッド」という用語と基本的なアーキテクチャは1990年代後半に Ian Foster と Carl Kesselman らによって体系化され、1999年の書籍『The Grid: Blueprint for a New Computing Infrastructure』やその後の論文で広く紹介されました。初期の研究と実装は主に学術・研究用途(大規模な科学計算や天文学、粒子物理学など)で進められ、世界中の大学や研究機関が資源を連携して利用するための基盤として発展しました。
基本アーキテクチャ(Foster の五層モデル)
- Fabric 層:実際のハードウェア(計算ノード、記憶装置、ネットワーク、センサー等)を指します。
- Connectivity 層:ノード間で通信や認証を行うためのプロトコル(セキュリティ・通信プロトコル)を提供します。
- Resource 層:単一の資源(CPU、ストレージなど)をローカルに管理・アクセスするためのサービス(ジョブ管理、データ管理、認可等)を担います。
- Collective 層:複数の資源を跨いだ協調的なサービス(レプリケーション、ディスカバリ、スケジューリング、監視、課金など)を提供します。
- Application 層:ユーザのアプリケーションやワークフローが動作する層で、研究アプリや可視化ツールなどがここに属します。
主要コンポーネントとミドルウェア
グリッドでは「ミドルウェア」と呼ばれるソフトウェア層が重要です。代表的なものには以下があります。
- Globus Toolkit:グリッドミドルウェアの代表的実装で、認証(GSI: Globus Security Infrastructure)、データ転送(GridFTP)などを提供しました(歴史的に重要である一方、2018年に公式サポートが終了しました)。
- gLite、UNICORE、ARC:各地域やプロジェクトで開発されたミドルウェア実装。
- HTCondor(旧Condor):ワークロード管理や高スループット計算向けのジョブスケジューラとして広く使われています。
- BOINC:ボランティアコンピューティングのためのプラットフォーム(SETI@home 等)で、広義の分散計算としてグリッド的要素を持ちますが、主に大量の個人PCを利用する点で性格が異なります。
セキュリティと認証
分散・フェデレーション環境ではセキュリティが不可欠です。多くのグリッドシステムは公開鍵基盤(PKI)を用いた認証・署名、GSI に代表される認証情報の委譲、アクセス制御、通信の暗号化を実装します。また、複数組織間でのポリシー調整やアカウンティング(利用記録の追跡)も重要課題です。
代表的な適用例・実運用プロジェクト
- Worldwide LHC Computing Grid(WLCG):CERN の LHC 実験データを処理・解析するための世界規模のグリッド。膨大なデータ処理と分散ストレージが要求される代表例です。
- European Grid Infrastructure(EGI)、Open Science Grid(OSG):研究コミュニティ向けの大規模なグリッドインフラ。
- BOINC ベースのボランティアプロジェクト(Folding@home、SETI@home 等):市民のPC資源を利用する分散計算の好例。
クラウドコンピューティングとの違い
グリッドとクラウドは共に分散資源の利用を扱いますが、目的と設計思想が異なります。主な差分は次のとおりです。
- 提供モデル:クラウドはサービス(IaaS/PaaS/SaaS)として商用のオンデマンド課金モデルが一般的。一方グリッドは複数組織間で資源を共有・連携するフェデレーション志向が強い。
- 仮想化と抽象化:クラウドは仮想化やコンテナを核にして柔軟なリソース割当てとスケーラビリティを提供。伝統的なグリッドは物理ノードの協調運用やジョブ配分に重きを置く。
- 運用対象:クラウドはエンタープライズやウェブアプリ向けに最適化されることが多く、グリッドはハイパフォーマンス/ハイスループットな科学計算に根ざした要件が多い。
利点と課題
利点:
- 資源の集約利用により単一機関では実現困難な大規模計算やデータ処理が可能になる。
- 既存設備の共有によりコスト効率が向上するケースがある。
- 国際的・機関横断的な協調研究を支える基盤となる。
課題:
- 異なる管理者ポリシーやソフトウェアスタック間の相互運用性確保が難しい。
- ネットワーク遅延やデータ移動コストがボトルネックになることがある。
- 認証・認可・監査などのセキュリティ・ガバナンス設計が複雑。
- グリッド専用ミドルウェアの維持・進化(例:Globus Toolkit のサポート終了)に伴う運用面の移行課題。
現在の位置付けと今後
2000年代に隆盛を迎えたグリッドは、その技術的成果や運用ノウハウをクラウドやコンテナ、分散データ管理へ継承しています。WLCG や EGI、OSG といった大規模科学向けフェデレーションは現在も活動を継続し、クラウドと併用するハイブリッド運用も一般化しています。つまり「グリッド的な考え方(フェデレーション、リソース共有、大規模ワークロードの調整)」は形を変えつつ現代の分散コンピューティングに重要な影響を与え続けています。
導入時の実務的ポイント(チェックリスト)
- 用途の明確化:ハイパフォーマンス/ハイスループット/大容量データ解析のどれに重心を置くか。
- セキュリティポリシーの合意:認証方式、鍵管理、アクセス制御、ログ保全の方針策定。
- ネットワーク設計:帯域、遅延、データ転送方式(例:GridFTP 等)を検討。
- ミドルウェア選定:既存のコミュニティ標準やサポート状況を考慮する(HTCondor、Globus の代替等)。
- 運用体制:アカウンティング、障害対応、ソフトウェア更新の責任分担を明確に。
まとめ
グリッドコンピューティングは、異なる組織や地域に点在するコンピューティング資源を協調して利用するための考え方と技術群です。かつての代表的ミドルウェアやプロジェクトは学術研究の大規模処理を支え、現在もその思想はクラウドやハイブリッドインフラ、分散データプラットフォームに受け継がれています。導入や運用にはセキュリティ、相互運用性、ネットワーク設計といった実務面の配慮が不可欠ですが、適切に設計すれば研究・産業の大規模問題解決に強力な基盤を提供します。
参考文献
- Wikipedia: グリッドコンピューティング(日本語)
- Ian Foster et al., "The Anatomy of the Grid"(論文 PDF)
- Ian Foster, Carl Kesselman, "The Grid: Blueprint for a New Computing Infrastructure"(書籍)
- Globus Toolkit — Wikipedia(歴史的ミドルウェア)
- Worldwide LHC Computing Grid (WLCG)
- European Grid Infrastructure (EGI)
- Open Science Grid (OSG)
- BOINC — Berkeley Open Infrastructure for Network Computing
- HTCondor(高スループットジョブ管理)
- Open Grid Forum(標準化コミュニティ)


