徹底解剖『ボリス・ゴドゥノフ』──ムソルグスキーの革新と歴史的背景
概要
『ボリス・ゴドゥノフ』はロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキー(1839–1881)による代表的なオペラで、ロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンの同名の戯曲(1831年)とニコライ・カラムジンの歴史書を原作としています。作品はロシア史上の動乱期、特にツァーリ位をめぐる権力や罪の問題、民衆と支配者の関係を大規模な合唱と写実的な劇的描写で描き出しており、ロシア国民劇を代表する傑作の一つとして評価されています。
成立と版の問題
ムソルグスキーは1869年に最初の草稿(しばしば「1869年版」と呼ばれる)を完成させましたが、当時の帝政検閲や劇場当局との折り合いが悪く、上演許可を得られませんでした。その後、ムソルグスキーは作品を改訂し、1872年に拡張・改訂版(一般に「1872年版」または「1874年版」として知られる)を完成させます。大きな相違点は、1869年版が中心的で簡潔な構成であったのに対し、1872年版ではポーランドにおける場面(マリーナや偽ドミートリイのエピソード)などが加えられ、劇的対照と国際的広がりが増しています。
ムソルグスキーの急逝後、ニコライ・リムスキー=コルサコフら同時代の作曲家や後年の編集者によって大幅な改訂やオーケストレーションの「手直し」が行われました。リムスキー=コルサコフの版は長く標準的に用いられましたが、20世紀中葉以降は「ムソルグスキーの原稿により忠実な上演」を志向する動きが強まり、原典主義的な校訂版や復元版が普及していきます。
あらすじ(簡潔)
物語の核は、ツァーリの地位を巡る権力闘争とそれに伴う罪の意識です。実在の人物ボリス・ゴドゥノフはツァーリの有力者として台頭し、幼いツァーリ候補ドミートリイ(ウグリチの皇子)の死に関与したとされます。作品は民衆の歓喜と不安、廷臣たちの策略、偽ドミートリイの出現によって動き、特にボリス自身の内的葛藤と狂気への傾斜がドラマの中心になります。末尾では政治的混乱と新たな権力の台頭が示唆され、救済的な解決は与えられません。
主要な場面と音楽的ハイライト
- 戴冠の場面(Coronation Scene):大規模な合唱と典雅な儀式音楽で始まり、国家的スケールを提示します。公式的で厳かな合唱はロシア正教や国家的シンボルを想起させ、劇の政治的文脈を明確にします。
- ボリスの独白/内省の場面:内面的な告白と罪の自覚がモノローグ的に描かれ、ムソルグスキー独特の「話し言葉に近い」歌唱線が用いられます。音楽は語りと歌の境界を曖昧にし、心理描写に深みを与えます。
- 愚者(ユーロドイ)=単純者の最期:宗教的・象徴的な要素を持つ情感豊かな場面で、民衆の無垢さと悲劇性が結びつけられます。終幕近くのこの場面はしばしば観客の胸を打ちます。
- ポーランドの場面(1872年版での追加):ポーランド側の宮廷劇と恋愛要素を含み、国際的な対立と詐称者ドミートリイの物語を豊かにします。音楽的にはポロネーズなどの舞曲的色彩が現れ、劇の色彩感を増します。
音楽言語と革新点
ムソルグスキーの作風で特筆すべきは、語りのリズムを忠実に反映した自然主義的なボーカルラインと、伝統的なドイツ流オペラとは異なる民族的語法の導入です。和声面ではモード的・民謡的な素材の活用、非機能的と感じられる和声進行、そしてオーケストレーションにおける色彩的・描写的な使用が見られます。合唱は単なる背景ではなく劇的推進力として機能し、群衆の声がしばしばドラマの主題そのものとなります。
またムソルグスキーは場面ごとの「現場感」を重視し、宗教的合唱、民謡、儀式音楽、舞曲といった多様な音楽素材を統合して劇的リアリズムを実現しました。結果として『ボリス・ゴドゥノフ』は心理劇であると同時に大衆劇でもあり、国家的叙事詩の側面を持つ作品となっています。
上演史と受容
初演は1874年前後にロシアで行われ、その後リムスキー=コルサコフ版を通じて広く上演されました。19世紀末から20世紀にかけては、ロシアのバス歌手フェオドール・シャリアピン(Feodor Chaliapin)らによってボリス役が確立され、役としての大きな評価を得ました。海外でも20世紀を通じて徐々に定着し、様々な演出・版で上演され続けています。
近年では原典に立ち返る試みが増え、ムソルグスキーの筆致を尊重した版や校訂が使用されることが多くなりました。また演出的には国家と個人の緊張、ポピュリズムや権力の正当性といった現代的なテーマを強調する演出も見られ、時代を越えて観客に訴える作品となっています。
編集史と原典回帰の動き
ムソルグスキーのスコアは生前に整えられなかったため、同時代の作曲家や後世の編集者による改変が多く存在します。リムスキー=コルサコフの改訂は「精緻化」として広く受け入れられましたが、その過度の整音化はムソルグスキー本来の粗さや奇抜さを覆い隠したとも指摘されます。20世紀後半からは原典主義的な校訂が出され、楽譜上の事実関係に基づいた復元が行われてきました。今日の上演では、どの版を用いるかが作品解釈に直接影響する重要な選択となっています。
現代の視点と演出の幅
現代のプロダクションでは、単に歴史劇としてではなく、権力の倫理、フェイクと情報操作、民衆の役割といった普遍的テーマに照らして再解釈されることが多いです。舞台美術や映像を用いた現代的演出、あるいは歴史的再現を重視した伝統的上演まで、解釈の幅は広がっています。音楽学的には原典復元の動きが続き、演奏・録音ともに多様な版がリリースされています。
聴きどころと入門のための指針
- まずは戴冠の場面とボリスの独白、愚者の最期を聴くと、作品の対照性と感情の深さが分かりやすいです。
- 版による差異に注意してください。ポーランドの場面を含む1872年版と、より簡潔な1869年版では劇の構成感が異なります。
- 合唱の役割に注目すると、作品が単なる個人ドラマではなく社会的・政治的な総体を描いていることが実感できます。
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参考文献
- Britannica: Boris Godunov (opera)
- Wikipedia (English): Boris Godunov (opera)
- Wikipedia (日本語): ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)
- IMSLP: Boris Godunov (スコアと資料)
- Metropolitan Opera: Boris Godunov (作品紹介と上演記録)
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