モーツァルト「ミサ曲 ヘ長調 K.116 (K6.90a)(偽作)」の真相と音楽的分析:来歴・楽曲構成・演奏史を読み解く
導入 — なぜこの作品は「偽作」と呼ばれるのか
モーツァルト(W. A. Mozart)に長く帰せられてきたミサ曲 ヘ長調 K.116(K6.90a)は、近現代の音楽学においてしばしば「偽作(spurious work)」として扱われます。本コラムでは、この作品がどのようにしてモーツァルト作品目録に組み込まれ、なぜ疑義が生じたのかを、写本・来歴・楽曲の様式的特徴・学術的議論・演奏史の観点から詳細に掘り下げます。読者は、この一曲を通じて18世紀の教会音楽作品の帰属問題と、その検証に必要な音楽学的手法を理解できるはずです。
概要 — 作品の基本情報と目録表記
このミサ曲はヘ長調で、カトリックの典礼に基づく標準的なミサの形式(Kyrie, Gloria, Credo, Sanctus, Benedictus, Agnus Dei)を踏襲しています。従来のケッヘル目録ではK.116と記載される一方、後の改訂や注釈付き目録ではK6.90aのような補助番号を与えられることがあり、これは作品の真正性に関する疑義や版による差異を反映しています。
写本と来歴 — 伝来資料が示すもの
この作品の最大の論点は、手写譜(写本)や初版の来歴が必ずしも明確でない点です。多くの初期モーツァルト作品の場合、ザルツブルクの教会関係者や楽長、あるいはモーツァルト一家の周辺に起因する写本が残されていますが、K.116に関しては、写本の筆跡・用紙・目印(スタンプや書き込み)などが作曲者本人のものと確定できる決定的な証拠を欠いています。
写本研究は帰属判断の基礎で、筆跡学(手書きの特徴比較)、水印(用紙の年代特定)、書誌学的検証(後補の書き込みや訂正痕跡)などを駆使します。K.116の場合、異なる写本群に不整合や改訂跡が見られ、またザルツブルクの典礼様式や当時の他作曲家の作風と共通する要素が散見されるため、真作説を支持する決定的根拠を得られていません。
楽曲構成と主要楽想(各楽章の分析)
以下では、典型的なミサ形式に沿って楽章ごとに音楽的特性を整理します(注:以下の分析は写譜に基づく一般的な様式分析であり、特定の小節番号や主題の正確な引用ではありません)。
- Kyrie — 伝統的に短い合唱導入の後、ソリスティックな応答や対位法的な処理を含むことが多いこの楽章では、本作もシンプルな主題提示と教会旋律的な応答が特徴です。旋律線は穏やかで、劇的な対位法よりは礼拝的な平明さを優先している点が指摘されます。
- Gloria — Gloriaでは祝祭感を出すために短い切れ目を伴うアレグロのパッセージや、対位・ホモフォニーの使い分けが行われます。K.116は若干保守的な和声進行と装飾の控えめさが目立ち、同時期のモーツァルトの成熟した調性的遊びや大胆な転調とは距離を置く傾向が見られます。
- Credo — 長大なテキストを扱うCredoは、しばしば楽章内部でテンポや気分を切り替える構成になっています。本作も主要文節ごとに簡潔な主題分割があり、対位法的展開よりも明瞭なテキスト設定が優先される点が注目されます。
- Sanctus / Benedictus — Sanctusは荘厳さを保ちつつ、Benedictusでは独唱や小編成の伴奏を用いることが一般的です。K.116のBenedictusでは、独唱ソロと弦楽の穏やかな対話が聴かれ、管楽器の使用が限定的であることから、ザルツブルク地方の教会での実用性を念頭に置いた編成が想定されます。
- Agnus Dei — 終結部では内的な静けさや和声的帰結が示されます。本作は安定した終止を迎える構成で、特段の劇的転換や革新的な和声処理は見られません。
作風的特徴と帰属をめぐる論点
多くの研究者が指摘する点は、K.116の様式が「保守的」であり、同時代の確実なモーツァルト作品と比べると、和声の進行、主題の発展、オーケストレーションの扱いに差異があるということです。モーツァルトには早期作品でも既に独特なリズム感や旋律の大胆な展開が見られることがあり、その点でK.116は幼年期の作例、あるいは別の教会音楽家(ザルツブルク周辺の匿名作曲家やレオポルト・モーツァルトの教えを受けた作曲家)の作品と類似する面があるとされます。
具体的には次のような観点から疑義が提起されます:
- 和声進行と転調の手法が、同年齢のヴォルフガング(モーツァルト)の既知作と比べ単純である。
- 伴奏楽器の扱い(木管やホルンの用法)がザルツブルクの典礼実践により適合しており、特定の地方様式を反映している。
- 写譜の筆跡や校訂跡がモーツァルト本人の既知の筆跡と一致しない。
以上が、専門家が「偽作」とする主な理由です。ただし、これらは確率的・比較様式的な根拠であり、絶対的な証拠(たとえば作曲者自身の自筆譜や確実な献呈状など)が見つかれば結論は覆る可能性があります。
学術的検証方法(どのように真偽を判定するか)
作品の真正性を検証する作業は多面的です。主要な方法を列挙します:
- 写譜学(筆跡・紙質・水印の分析) — 書誌的証拠を通じて写本の作成年代や写譜者を特定する。
- 様式分析 — 和声進行、対位法、旋律処理、形式構成を確実な作品群と比較する。
- 来歴史料の探索 — 教会帳簿、支払い記録、アーカイブに残る演奏記録や台帳を検索する。
- 音源と版の比較 — 初出版がある場合はその版面と写本を比較し、改訂や編曲の有無を確認する。
K.116の場合、多くの学者が上記の方法を組み合わせて検討し、総合的判断として真作の可能性は低いという見解を採っていますが、完全に否定するには至っていないのが現状です。
演奏史と現代での扱い
偽作扱いであっても、音楽史的魅力や礼拝音楽としての完成度から、演奏・録音が全く行われないわけではありません。歴史的演奏法を重んじる団体や図書館所蔵の写本を基にした演奏会などで演奏されることがあり、録音も限定的に存在します。現代の演奏では、規模を小さく抑えた編成や、オルガン続奏を含む教会型の実践が多く、作曲者帰属を巡る論争を背景に、プログラムノートで注記する例も一般的です。
なぜこの議論が音楽史にとって重要か
作曲者帰属の問題は単に名前を付け替える作業ではありません。ある作品をモーツァルトとして受け取るか否かで、晩年の様式理解や若年期の発展像、ザルツブルクの音楽文化史に対する評価が変わります。K.116のような事例は、目録学(カタログ編纂)やデジタル資料化、写本の公開といった現代音楽学の実務がいかに重要かを示す良い例と言えます。
実務的アドバイス:録音や演奏での表示方法
演奏会や録音でこの作品を扱う際は、プログラムやCDブックレットで次の点を明確に記載することをおすすめします:
- 作品名と通称番号(例:「ミサ曲 ヘ長調 K.116(K6.90a) — 偽作とされる場合がある」)
- 使用した版(写本を基にした新校訂か、既存の版か)とその根拠
- 来歴/帰属に関する簡潔な注記(研究上の議論を尊重する姿勢)
まとめ — 現在の結論と今後の課題
ミサ曲 ヘ長調 K.116(K6.90a)は、現時点で多くの専門家が「モーツァルトの真作とは考えにくい」と評価する作品です。その理由は写本の来歴不明瞭さ、様式的保守性、写譜の筆跡差異など複合的です。しかし音楽そのものは礼拝音楽としての完成度を持ち、18世紀ザルツブルクの典礼的文脈を知る上で興味深い資料です。将来的には新たな写本の発見や、デジタル技術を用いた水印解析・筆跡比較の進展が、最終的な帰属判断に影響を与える可能性があります。
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参考文献
- IMSLP: Missa in F major, K.116 (Mozart, Wolfgang Amadeus)(写譜・版情報の参照)
- Digital Mozart Edition (Neue Mozart-Ausgabe / Mozarteum)(モーツァルト作品目録と批判校訂の参照)
- Grove Music Online (Oxford Music Online)(モーツァルト研究・作品帰属に関する概説)
- Wikipedia: List of compositions by Wolfgang Amadeus Mozart(補助的な総覧)
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