バッハ「BWV 208a わが楽しみは、元気な狩りだけ」――狩猟と牧歌が響きあう世俗カンタータの深層
はじめに — 狩りのカンタータとは何か
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの世俗カンタータ『わが楽しみは、元気な狩りだけ』(独: Was mir behagt, ist nur die muntre Jagd)は、一般的にBWV 208として知られる作品ですが、写本や改訂の過程でいくつかの版や断片が存在し、それらを区別するために番号に付記がなされることがあります。BWV 208の最も有名な場面には『Schafe können sicher weiden(羊は安らかに草を食む)』というアリアがあり、「羊は安らかに草を食む」は英語圏でも《Sheep May Safely Graze》として広く親しまれています。本稿では、この狩猟カンタータの成立背景、テクストと音楽の関係、演奏・楽器法上の特徴、版や「a」表記が示す意味、そして現代における受容までを詳しく掘り下げます。
成立と作曲の背景
BWV 208は1713年、バッハがヴィーマル(ヴァイマール)に在職していた時期に成立した世俗カンタータです。作曲の直接の契機は、ザクセン=ヴァイセンフェルス公クリスティアン(Christian)の祝賀または訪問など、宮廷行事への祝いを目的としたものとされ、テクストは当時の宮廷詩人であったザロモン・フランク(Salomon Franck)が手掛けたと伝えられています。世俗カンタータというジャンルは、宗教カンタータと比べて祝祭性や個人的な賛辞、寓意的な会話劇性が強く、バッハはこのジャンルを通じて宮廷や市民層に向けたレパートリーを築きました。
テクストと寓意 — 狩猟のモティーフ
この作品では「狩猟」が中心的モティーフとして用いられます。狩猟は当時の貴族的レジャーであると同時に、勇気や統率力、土地所有の象徴でもあり、被祝賀者の資質や徳性を称える題材として好まれました。歌詞は狩猟に由来する擬人化や寓意にあふれ、牧歌的な情景や自然との調和が並置されます。こうしたテクストに対してバッハは、音楽的に狩猟のファンファーレ的素材や、牧歌の静けさを描く対比を巧みに用いています。
編成と音響 — 自然ホルンと弦、木管の役割
このカンタータは狩猟という性格にふさわしく、ホルン(自然ホルン)を特色楽器として配しています。自然ホルンのファンファーレ音型は狩猟場面を想起させ、祝祭性や威厳をもたらします。その他に弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ等)、通奏低音(チェンバロ/オルガンとチェロ/コントラバス)、そして場面によってはオーボエなどの木管が加わります。編成の具体的配置や人数は版や演奏解釈によって変化しますが、重要なのは、バッハが声部と器楽を通して情景描写(狩りの躍動、牧歌の静謐)を音で具現化している点です。
音楽的特色とモチーフの扱い
BWV 208が聴きどころとして示すのは、以下のような要素です。
- ファンファーレ的リズムとトランペットではなくホルンを用いることで生まれる狩猟的色彩。
- 牧歌的アリアに見られるシンプルで穏やかな旋律線と繰り返し進行。特に『Schafe können sicher weiden』のようなアリアは、静的な和声進行と歌詞の安心感が一致することで強い印象を残します。
- 対話的なレチタティーヴォや合唱(作品によっては小合唱的扱い)の使用によるドラマ性の演出。
- 短いダンスやリトル・シンフォニア風の器楽導入部を用いることで、全体に祝祭的・舞踏的な流れを与えている点。
有名なアリア『Schafe können sicher weiden』について
このアリアは本作の中で最も広く知られる部分で、器楽的にもきわめて簡潔な伴奏と柔らかな旋律によって「平安」「守られていること」などの感覚を音で示します。時代を経てピアノやオルガン、弦楽合奏用に編曲されることが多く、コンサートや録音を通じて単独で演奏されることも多いです。元来はカンタータの文脈に組み込まれた一場面であり、その歌詞と音楽は全体の寓意(祝賀される人物の統治下での安寧)と密接に結びついています。
版と番号表記(BWV 208a を含む)について
Bach-Werke-Verzeichnis(BWV)による番号付けは作品の同定と参照を容易にするためのものですが、写本の伝承やバッハ自身による転用、後世の改訂・編曲などにより一つの作品が複数の版や変種を持つことがあります。末尾に付く「a」「b」等は、そうした版や変形を示すための学術的便宜表記です。したがってBWV 208aは、必ずしも全く別個の新曲を意味するのではなく、原曲の異同版、転用、あるいは断片的伝承を指すことが多い点に留意する必要があります。具体的な版ごとの差異は、テクストの語句の差替え、器楽編成の変更、または行事に合わせた部分的な書き換えなどによります。
演奏史と演奏慣習の変化
20世紀中葉以降、歴史的演奏法の復興とともに自然ホルンや古楽器を用いる演奏が普及し、BWV 208の味わいも大きく広がりました。自然ホルンの特徴的な音色は、現代のヴァルヴ付きホルンとは異なる素朴で野性的な響きを作品に与えます。また声部の設定やテンポ、装飾法(オルナメント)に関しても、当時の実践に基づく解釈が試みられる一方で、伝統的な大編成・ロマンティックなアプローチで録音・演奏されることもあり、曲の受け取り方は多様です。
現代における受容と利用
『羊は安らかに草を食む』をはじめとする旋律は、映画音楽やテレビ、冠婚葬祭のシーンなどさまざまな場面で利用され、クラシックの名旋律の一つとして一般にも認知されています。さらにアレンジ作品が多いことも特徴で、独奏用の鍵盤編曲や弦楽合奏版など、原曲の文脈を離れて演奏される機会も多い点が、作品の柔軟性と普遍性を示しています。
聴きどころと鑑賞のポイント
初めてこのカンタータを聴く際の注目点をいくつか挙げます。
- 冒頭からの器楽導入で狩猟的トーンがどのように提示されるかを聴いてみること。ホルンの動機やリズムがどのように主題化されるかに注目すると物語性が見えてきます。
- 『Schafe können sicher weiden』では歌と伴奏のバランス、伴奏の和声進行が歌詞の意味をどのように裏支えしているかを味わうこと。
- 版や録音による解釈の違い(例えば古楽器編成 vs 近代編成、テンポ設定、声種)に注目して比較鑑賞すると、バッハ作品の多義性や普遍性が理解できます。
研究上の論点
学術的には、BWV 208およびその変種(a表記を含む)について、起源・初演の正確な事情、テクストの版差、器楽編成の復原、当時の演奏習慣の再構築などが主要な研究テーマです。写本資料の照合や当時の宮廷の文献調査により、細かな改訂点や転用の経緯が解明されつつありますが、不確定要素も残るため、複数の解釈が存在するのが実情です。
まとめ
『わが楽しみは、元気な狩りだけ』は、狩猟という具体的なモチーフを通じて祝賀的寓意を音楽で表現した傑作であり、その中の牧歌的アリアは現代にも深く根付いています。BWV 208と表記される中心的作品に対して『a』などの付記は版や変種を示す学術上の便法であり、原曲の魅力を失うものではなく、むしろ多様な演奏史的側面を浮かび上がらせます。原典に触れつつ、異なる版やアレンジを比較することで、バッハが描いた狩猟と牧歌の世界をより立体的に味わうことができるでしょう。
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