バッハ:BWV 234「ミサ曲 イ長調」— 短くも精緻な礼拝音楽の魅力

イントロダクション — BWV 234とは何か

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「ミサ曲 イ長調」BWV 234は、いわゆる「短ミサ(Missa brevis)」の一つで、ミサのキリエとグロリアだけから成る作品群(BWV 233–236)に属します。ミサの全曲を意味する大ミサ(Missa tota)とは異なり、礼拝で実用的に用いるため短縮された形式で、教会での奉仕や礼拝の時間制約に対応した作品群として作られました。BWV 234はその中でも明るいイ長調を用い、対位法と動的なリズムを併せ持つ作品です。

成立と来歴(概説と時代背景)

BWV 234を含む短ミサ群は、バッハがライプツィヒで教会音楽の職務を果たしていた時期(1720年代後半から1740年代)に編まれたと考えられています。学界では作曲年代をおおむね1730年代後半から1740年代初頭とする見解が多く、教会の実践に即した実用的な編成である点が特徴です。多くの楽章は既存のカンタータや世俗作品からの転用(パロディ技法)によって構成されており、バッハはこの方法を、音楽素材の再利用と礼拝の文脈への適応に巧みに用いています。

楽器編成と演奏力学

BWV 234の標準的な編成は、四声(ソプラノ、アルト、テノール、バス)のソロと混声合唱、弦楽(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ)、通奏低音(チェロ/コントラバスとチェンバロあるいはオルガン)という実用的な編成です。写本や楽譜の版によってはオーボエやトランペットが加えられる場合もあり、演奏環境や礼拝の規模に応じた柔軟な編成が可能です。現代の演奏では、歴史的演奏法に基づく小編成(オリジナル楽器/ピリオド奏法)と、やや大きめの合唱とオーケストラによる演奏の双方が一般的です。

構成(楽章一覧)

  • Kyrie(合唱的な祈り)
  • Gloria(複数の楽章に分割)

全体はキリエの呼びかけとグロリアの賛歌を含む短い典礼的枠組みで、各部分はさらに独立した小楽章──合唱とアリア、二重唱、重唱など──によって彩られます。

音楽的特徴と分析(主要ポイント)

1) テキスト表現とリズム:イ長調の明るさを活かしたリズミカルな動きが各所に現れ、特にGloriaのいくつかの楽章では活発なフガートや呼びかけと応答の対話的な書法が用いられます。バッハは短い楽章の中でテキストのアクセントを的確に捉え、リズムやメロディーに反映させます。

2) 対位法とホモフォニーの併存:合唱楽章では対位法的な模倣と明瞭な和声進行を使い分け、短時間でのテクスチャの切り替えによって表現の幅を確保しています。アリアや重唱では伴奏リズムがソロの旋律を支え、歌詞の意味に即した語り口が際立ちます。

3) パロディ技法:BWV 234の各楽章の多くはバッハ自身の以前のカンタータ楽章などを転用したと考えられており、元の音楽素材を典礼ラテン語テキストに合わせて巧みに整えています。このため、原曲の舞曲的・世俗的な色彩が礼拝的テキストと融合して独特の魅力を生みます。

楽章ごとの聴きどころ(概観)

・Kyrie:祈りの三回呼びかけ(Kyrie eleison/Christe eleison/Kyrie eleison)の構成を、合唱と独唱の対比や短いフーガ的部分で表現します。テンポや呼吸の取り方によって祈りの深さが変わるため、指揮者と合唱の呼吸が重要です。

・Gloria:複数の楽章から構成され、喜びと感謝を表すテキストに応じて祝祭的な楽想から内省的なアリアまで多彩な表情を見せます。特に「Et in terra pax」のような平和を歌う部分では対位法と和声の調和が印象的です(番号付けや細目は版によって異なります)。

演奏・解釈上の注意点

  • テンポと自然な語り:ラテン語のアクセントを生かした語り口で、単に速く演奏するのではなくテキスト理解に基づくテンポ選びが重要です。
  • 合唱の規模:ピリオド演奏では各パート1–3名程度の小合唱、現代的解釈ではより大所帯の合唱が採られます。どちらにも利点があり、音色の透明さと迫力のバランスを考慮して選びます。
  • 装飾とアドリブ:バロック的装飾は適度に用いることが望ましく、ソロ歌手の語りの自然さを損なわない範囲での装飾が効果的です。

おすすめ録音(入門から専門家向け)

  • マサアキ・スズキ(Bach Collegium Japan) — 透明で音楽テクストに忠実な演奏
  • ジョン・エリオット・ガーディナー(Monteverdi Choir / English Baroque Soloists) — 歴史的演奏慣習に基づいた生き生きとした解釈
  • フィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe) — 合唱の美質を重視した穏やかな表現

スコアと現代の実用

楽譜はIMSPLなどのパブリックドメイン版のほか、Bärenreiterなどから校訂版が出版されています。礼拝での実用、研究、教育など目的に応じて版を選ぶと良いでしょう。転用素材の出典やテクスト校訂については版ごとに注記が異なるため、版注を確認することを勧めます。

まとめ — BWV 234の位置づけ

BWV 234「ミサ曲 イ長調」は、短いながらもバッハの礼拝音楽としての機能性と音楽的完成度の高さを示す作品です。パロディ技法による素材の再利用、明解な対位法、礼拝的テキストへの即応性といった特徴を通じて、実用性と芸術性が見事に調和しています。コンサートレパートリーとしても、礼拝での実演としても魅力を発揮する一曲です。

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参考文献