バッハ『マタイ受難曲』BWV244 — 歴史・構成・名曲分析と名盤ガイド

総論 — 作品の位置づけと概略

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』BWV244は、宗教音楽の頂点の一つと評される大作であり、ドイツ・バロック音楽の表現力と構築力を象徴する作品です。受難節の典礼に捧げられるためにライプツィヒで作曲され、福音書マタイの受難物語を中心に、独唱、合唱、合奏、コラール(讃美歌)を複層的に組み合わせて物語を描き出します。合唱による“群衆”(トゥルバ)場面、福音書を語るエヴァンゲリストの奏する叙述的レチタティーヴォ、個人の信仰的省察を担うアリア、会衆の応答を象徴するコラールが織りなす構成は、神学的かつ音楽的に高度な統合を示します。

成立と初演の状況

『マタイ受難曲』はバッハがライプツィヒで教会楽長を務めていた時期に成立した大規模な受難曲で、一般には1727年に初演されたと考えられています。台本は同時代の詩人クリスティアン・フリードリヒ・ヘニチ、通称ピカンダーが主に担当したとされ、福音書本文(マタイ福音書)の直説を中心にピカンダーの詩的反省や既存のコラール文句が挿入されます。作品は二部構成で、当初は受難節の礼拝(午前と午後、もしくは説教を挟んで分けて上演)に合わせて演奏されることを想定していました。

テキストと台本の特色

テキストは大きく三層から成ります。第一にマタイ福音書のギリシア原典に基づいた叙述(エヴァンゲリストのレチタティーヴォ)。第二に群衆や登場人物の反応を音楽化する合唱(トゥルバ)。第三に個人的、共同体的な信仰の応答として挿入されるアリアやコラールです。コラールはルター派教会で親しまれた旋律と歌詞を用いることで、当時の礼拝参加者の心的世界と結びつき、物語の神学的な含意を日常的な信仰経験へと引き下ろします。

編成と構造

編成は特筆すべき二重合唱・二重管弦楽の構造を採用しています。すなわち二つの独立した合唱団とそれぞれの管弦楽を持ち、さらに独唱者群と通奏低音を加えた大規模な布陣です。この二重の対比は、対話的・空間的な効果を生み出し、時に劇的、時に瞑想的な場面転換を可能にします。作品は大きく二部に分かれ、第一部は逮捕から裁判の前半まで、第二部は裁判の続きと磔刑・埋葬までを扱うのが一般的です。

代表的な楽曲と音楽的特徴

本作には数々の名曲が含まれますが、特に知られるのは次のような要素です。

  • 開幕合唱:荘厳な合唱で物語世界へと引き込む導入部。コラール的素材と複合対位法を駆使した構成が印象的です。
  • エヴァンゲリストのレチタティーヴォ:物語の語り手であるテノールの役割は、カンタービレな語りと高度な表現力を要求します。バッハは語尾の音型や伴奏のリズムを巧みに用いて出来事の緊迫や心理を示します。
  • トゥルバ合唱:群衆の応答はしばしば激しく劇的で、リズムとハーモニーで群衆心理を音化します。強烈な対比と瞬間的な高揚が特徴です。
  • アリア群:個人的な悔悟や祈りを反映するアリアは、器楽の独奏を伴い深い内省を引き出します。特にアルトのアリア『エアバルメ・ディッヒ(Erbarme dich)』は、ヴァイオリンの哀歌的な独奏が絡む名場面として知られます。
  • コラールの扱い:既存の讃美歌旋律を巧みに引用し、合唱と独唱の間に信仰共同体の声を挿入します。『O Haupt voll Blut und Wunden』などのコラール引用は、聴衆の宗教的共感を即座に呼び起こします。

作曲技法と表現上の工夫

バッハは対位法、モチーフの循環使用、リズム的配置、和声的転回などを駆使して、神学的な深みを音楽的に具体化します。たとえばキリストの受難の場面ではしばしば長調・短調の対比、減七の使用、低声部の密やかな動きなどで苦悩や無言の受容を表現します。また、群衆の声を合唱に割り当てる一方で、個人の祈りを独唱に委ねることで、公共性と私的祈願の緊張が浮かび上がります。

受難曲の歴史的受容とメンデルスゾーンの復興

18世紀後半から19世紀初頭にかけてはバッハの宗教作品は限定的に知られていましたが、1829年にフェリックス・メンデルスゾーンがベルリンで行った『マタイ受難曲』の復活上演は、バッハ再評価の大きな契機となりました。この上演以降、作品はコンサートレパートリーとして定着し、20世紀後半の歴史的演奏実践運動により、楽器編成や発声等について新たな解釈が示されてきました。

演奏と録音の注意点

本曲は規模と宗教的深度ゆえに演奏上の判断が多くを左右します。伝統的な大編成による解釈と、歴史的演奏法に基づく小編成・原典主義的アプローチのいずれもそれぞれの魅力を持ちます。エヴァンゲリストやイエスの配役、合唱の人数、コラールの歌わせ方、現代楽器と古楽器の選択などは、演奏者の思想によって異なります。一般の聴き手には、まずは複数の録音を聴き比べることを薦めます。

聴きどころガイド

入門者には次の点を観察すると鑑賞が深まります。エヴァンゲリストの語りが物語をどのように導くか、トゥルバ合唱が群衆心理をどのように表現するか、アリアにおける器楽と声の対話がどのような内面性を描くか、そしてコラールが共同体の信仰をどのように再確認させるか。『Erbarme dich』や『Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen』などの主要モーメントは、個々の演奏の思想をよく表します。

おすすめ録音の指針

録音は時代・方針で大きく異なります。歴史的演奏を志向する演奏家としてはジョン・エリオット・ガーディナー、ニコラウス・アーノンクール、マサアキ・スズキらの録音が評価されています。一方でカール・リヒターやヘルベルト・フォン・カラヤンなどの伝統的な大編成による録音も別の魅力を持ちます。各録音の解釈方針を事前に確認し、自身の聴取目的に合わせて選ぶと良いでしょう。

結語 — 永続する宗教的・芸術的意義

『マタイ受難曲』は単なる音楽作品にとどまらず、信仰の言語と芸術の言語が交差する地点に立つ思想的遺産です。演奏のたびに新たな解釈が生まれ、聴き手に深い精神的体験をもたらす点で、今日も世界各地で演奏され続けています。教会での礼拝的機能を超えて、普遍的な人間の苦悩と希望を問う作品として、多様な時代において読み直され続けるでしょう。

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参考文献