失われたバッハの『マルコ受難曲』BWV247 — 歴史・構成・復元をめぐる考察

導入 — なぜ『マルコ受難曲』は特別なのか

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685–1750)が手がけた受難曲といえば、現代にも残る『マタイ受難曲』(BWV 244)や『ヨハネ受難曲』(BWV 245)がよく知られています。しかし、バッハ作品目録(BWV)には「マルコ受難曲(Passio sec. Marcum)BWV 247」と記された作品が存在しながら、その楽譜は現存していません。本コラムでは、散逸したこの作品をめぐる歴史的背景、テクスト(リブレット)の特徴、復元・再創造の試み、そして考古学的・音楽学的意義について総合的に解説します。

史的背景:いつ、どのように作られたか(現存資料の範囲)

『マルコ受難曲』について確実に伝わっているのは、リブレット(台本/テキスト)が残存していることです。台本はバッハと協働関係にあった詩人ピカンダー(Christian Friedrich Henrici)が作成したもので、当時の礼拝プログラムに合わせた受難劇の形式をとっています。一方で、バッハ自身の筆による総譜やパート譜は現存しておらず、作品の音楽的実体は失われたとされます。

バッハはライプツィヒのトーマス教会(Thomaskirche)を中心に聖週間のための音楽制作・上演を継続しており、受難曲の制作と改訂を繰り返していたことが知られています。こうした創作事情から、バッハが『マルコ受難曲』を書いたのは、ライプツィヒにおける礼拝のためであったと考えられますが、正確な初演年や上演回数については資料が限定されるため確証がありません。

リブレットの内容と構成(ピカンダーの文体)

ピカンダーのリブレットは、典型的なバッハ受難曲の構成要素を備えています。具体的には次の要素が交互に現れる形式が想定されます。

  • 福音書の叙述(エウァンゲリスト=語り手のレチタティーヴォ)
  • 群衆(turba)による合唱句
  • 個々の唱(アリア)による内省的・感情的反応
  • コラール(教会旋律)による共同体的応答

ピカンダーのテキストは説教的かつ情緒的で、バッハが好んで用いた比喩や情感表現が多く散りばめられています。これにより、音楽的には叙述と内省(物語の進行と信仰的応答)が明確に分かれる構造が予想されます。

楽器編成・声部についての推測

直接の楽譜がないため編成は断定できませんが、ライプツィヒでのバッハの通常の受難曲編成を踏まえると、以下の要素が用いられた可能性が高いです。

  • 独唱:ソプラノ、アルト、テノール、バスのソリスト
  • 合唱:SATB混声合唱(時には合唱を分割して対位的に扱うことも)
  • 管弦楽:弦楽オーケストラ(第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ)、オーボエ類やフラウト・トラヴェルソ、通奏低音(チェロ・コントラバス・チェンバロ/オルガン)

バッハの他の受難曲で見られるオブリガート楽器(オーボエやヴァイオリンの独奏的扱い)がアリア表現に使われていたことも十分に考えられます。

なぜ楽譜が残らなかったのか — 散逸の要因

18世紀から19世紀にかけて、楽譜の保存状況は不均一で、宗教曲の自筆譜が失われることは珍しくありません。理由としては次のような点が挙げられます。

  • 礼拝用の楽譜は使用され消耗しやすく、定期的に改訂・廃棄された
  • 私蔵譜や教会蔵書の散逸・失火・搬出などによる喪失
  • バッハや後継者が他の作品へ素材を転用(パロディ)する過程で原譜が散逸した可能性

加えて、19世紀のバッハ復興(メンデルスゾーンら)以前は、バッハの全作品が系統的に保存・評価されていたわけではなく、その点も散逸を招いた要因です。

復元・再構築の方法とその問題点

楽譜を失った作品を取り戻すには、複数のアプローチがあります。

  • パロディ資料の照合:バッハは既存の宗教曲や世俗曲の音楽を新しいテキストに当てはめる「パロディ手法」を多用しました。リブレットの各曲に付されたメトリックや音楽的ヒントを手がかりに、既存のバッハ作品の中から合致する旋律・伴奏を探し出して当てはめる方法です。
  • スタイル推定:バッハの他の受難曲や同時期のカントラタ的語法を参考に、欠落部分を様式に沿って新作(補筆)する方法です。ここでは和声進行、アリアの形式、合唱の書法などを参考にします。
  • 史料に基づく編曲:リブレットに記された楽器や演奏指示(ある場合)を元に、似た場面でバッハが用いた既存楽曲から編曲して再構築する試みです。

しかし、いずれの方法にも固有の問題があります。パロディ仮説が当てはまらない箇所、複数の候補が存在する箇所、そしてバッハ自身の改訂可能性(初演以後に手を入れた可能性)などが復元の不確実性を高めます。そのため、復元はあくまで「可能性の提示」であり、オリジナルの再現とは区別されます。

音楽学的・実践的意義

『マルコ受難曲』の復元作業が示す意義は多層的です。第一に、バッハの作曲技法や受難曲というジャンルにおける慣習を深く理解するための実験場になること。第二に、18世紀の典礼やリブレット作法、合唱・器楽編成に関する具体的な知見を補完する点。第三に、今日の演奏実践(歴史的奏法、通奏低音処理、テキスト表現など)に新たな視点を与える点が挙げられます。

代表的な復元の受容と批評

20世紀以降、複数の研究者・指揮者が復元案を提示し、実演や録音を通じて聴衆に提示してきました。これらの試みは学術的には常に議論の的になり、例えばどの既存曲を借用候補とみなすか、補筆部分にどの程度創作者の介入を許すか、といった基準が問われます。音楽学的厳密さと舞台上の説得力という二律背反の中で、各案はそれぞれの立場(学術重視/演奏重視)を反映しています。

現代へのメッセージ — 失われた作品が残すもの

『マルコ受難曲』の喪失は痛ましい一方で、音楽学者・演奏家にとっては検証と創造の契機となっています。失われた楽譜そのものは取り戻せなくとも、リブレットという言葉の遺産と、バッハの作曲法を手がかりにした復元作業は、当時の宗教観・美意識・演奏慣習を現代に生き返らせる役割を担います。つまり、「完全な再現」ではなく「歴史的想像力に基づく再演」が、今日の私たちに与える学びは決して小さくありません。

まとめ — 受難曲研究が提示する問い

BWV 247『マルコ受難曲』は、楽譜が失われている故に多くの不確実性を孕みます。しかし、リブレットとバッハの他作品という二つの資源を組み合わせることで、当時の音楽語法や礼拝実践、受難表現の可能世界を立ち上げることができます。復元は最終解答ではなく、歴史理解のための有効な方法論であり、演奏を通じて新たな議論と気づきを促すものです。

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参考文献