バッハの機知と民謡性──BWV 524『クォドリベット』を読み解く
はじめに:クォドリベットとは何か
「クォドリベット(quodlibet)」はラテン語で「好きなように」という意味を持ち、音楽の世界では複数の旋律や歌詞を意図的に重ね合わせて生まれるユーモアや諧謔性を特徴とする形式を指します。ルネサンス以降の友愛的・宴会的な音楽文化の中で発達し、バロック期にも愛好されました。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685–1750)においても、厳格な対位法や宗教音楽だけでなく、遊び心や民衆的な素材を取り込む事例が見られ、その代表例のひとつが伝承上BWV 524とされる短い鍵盤曲です。
BWV 524の来歴と伝承
BWV 524は伝統的にはバッハ作品目録(Bach-Werke-Verzeichnis, BWV)に登録された「Quodlibet」として知られています。現在この曲は手稿を通じて伝わっており、アンナ・マグダレーナ・バッハのためのノートブック(Notenbüchlein für Anna Magdalena Bach)など、家族や親しい輪での演奏・写譜の文脈に関連づけて論じられることが多いです。
ただし、こうした小品は必ずしもヨハン・ゼバスティアン一人の作と断定されない場合が多く、写譜者の手や後世の補筆、地方伝承などが混在します。BWV 524についても、作曲者帰属や成立時期については研究者の間で慎重な議論がなされています。とはいえ、楽曲の語法やユーモアの感覚、対位法的な処理はバッハの親和性を強く示唆しており、演奏・鑑賞の対象として重要性を持ちます。
曲の特徴:素材と構成
BWV 524は短い鍵盤曲で、複数の旋律断片が同時に並立・重なり合う「クォドリベット」の本質を示しています。以下の要点が聴覚的・楽譜的に観察されます。
- 複数の民謡・舞曲風の素材や当時の通俗歌(あるいはそのように受け取られる短いフレーズ)が断片的に登場し、対位法的に交錯する。
- 和声進行は基本的に簡潔で明確、しかし旋律の掛け合いにより一時的な不協和やユニークな和声連鎖が生まれる。
- 形式は短いリトル・エピソードの積み重ねで、各セクションが次の素材を導入するように続く。全体としては即興的な「居酒屋の余興」を思わせる軽妙さを残す。
- 高度な対位法的技巧を全面に押し出すわけではないが、声部の独立性や互いの干渉を計算した配置はバッハならではの精緻さを示唆する。
演奏上の留意点:スタイルと表現
BWV 524の演奏に当たっては、以下のような点がしばしば指摘されます。
- テンポ感:全体はやや軽快で会話的なテンポが自然ですが、各旋律の出入りや重なりでテンポをわずかに呼吸させると曲の語り口が活きる。
- アーティキュレーション:旋律の輪郭を明確にしつつも、重なりの中で他の声部を殺さないバランス感覚が重要。装飾や非和声音は過度に誇張しない。
- ダイナミクス:当時の鍵盤楽器(クラヴィコード、チェンバロ)を想定すると極端なデクレッシェンド/クレッシェンドは少ないが、現代ピアノで演奏する際は微妙なニュアンスで会話性を出すと良い。
- ユーモアの提示:この曲の魅力は“遊び”にある。聴衆に分かる形で旋律の引用や対旋律の掛け合いを目立たせる演奏判断は、曲の性格を伝える上で有効である。
楽曲の文化的・歴史的意義
BWV 524のようなクォドリベットは、バッハの音楽の幅広さを示す重要な証左です。宗教音楽や高邁な対位法だけでなく、日常の歌や俗謡を取り込み、それを高度な音楽構成に組み込むことができる柔軟性は、当時の音楽家に期待された多様な技能を反映しています。
また、クォドリベットの精神はバッハのユーモア感覚、仲間内での娯楽、教育的側面(生徒への対位法訓練の一環としての素材扱い)などを示唆します。この点でBWV 524は、作曲者像を単なる宗教的巨匠にとどめない“人間としてのバッハ”を伝える小さな窓とも言えるでしょう。
楽譜と版について:入手と校訂
BWV 524を演奏する場合、現代の校訂版、古楽系の実用版、またはオリジナル写本のファクシミリを参考にすることが推奨されます。近年はデジタルアーカイブにより写本画像が公開されている場合もあり、原典の筆記や装飾の有無を確認できます。実演においては以下の点を確認してください。
- 原典写本と現代版の差異(装飾、追加の音符、指番号やフレージングの付記など)。
- 編曲やピアノ向けのリピエーニ(補筆)が加えられているか。現代ピアノ用に再配分された音域や内声の扱いに留意。
- 歴史的演奏法の観点から、チェンバロやフォルテピアノでの演奏も検討する。音色が曲の「会話性」を際立たせる場合がある。
著名な録音と聴きどころ
BWV 524自体は比較的短いため、単独の録音というよりも、アンナ・マグダレーナ・ノートブックや鍵盤小品集の一部として収録されることが多いです。録音を聴く際は下記の点に注意すると曲の理解が深まります。
- 演奏楽器:チェンバロ、フォルテピアノ、現代ピアノでの音色の違い。
- テンポと間の取り方:短い曲だからこそ、フレーズ間の呼吸が曲想に大きく影響する。
- 引用される旋律に対する解釈:民謡や流行歌風のフレーズがどのように扱われ、対位的に冗談めいた結びが作られているか。
分析のヒント:聴きながら注目すべきポイント
初めてBWV 524を聴く人に向けて、曲の「聴きどころ」を整理します。
- 冒頭の素材提示:どの旋律が主導的か、どの旋律が応答的に現れるかを意識する。
- 声部間の距離感:上声と下声の役割分担(メロディ/伴奏)を超えて、互いに“話す”ように聞こえる箇所を探す。
- 終結部:ユーモアがどのように解決されるか、和声的な安定への収束を確認する。
まとめ:小品に宿る大きな意味
BWV 524は短いながらも、バッハの幅広い音楽性と人間味を示す興味深い作品です。対位法的技巧と民俗的素材、洗練と遊び心が同居するこのクォドリベットは、学術的な検討対象であると同時に、日常の演奏・鑑賞における楽しみを提供します。原典のテクスト批判や演奏慣習の考察を通じて、より深い理解が得られることでしょう。
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参考文献
- Bach Digital (Bach-digital.de) — 作曲家別・作品別のデジタルアーカイブ
- IMSLP — Quodlibet, BWV 524(楽譜と原典写本の情報)
- Bach Cantatas Website — バッハ作品と補助資料の総合サイト
- Wikipedia — Notenbüchlein für Anna Magdalena Bach(アンナ・マグダレーナのためのノートブック)
- Grove Music Online(Oxford Music Online) — バッハと関連様式に関する総説(要購読)


