バッハ BWV596 協奏曲第5番 ニ短調:成立背景・楽曲分析と演奏のポイント
概説
J.S.バッハの「協奏曲第5番 ニ短調 BWV 596」は、弦楽アンサンブルの協奏曲をオルガン用に編曲した作品群の一つで、イタリア楽派、特にアントニオ・ヴィヴァルディの影響が色濃く残る曲です。BWV 592–596 の一連はバッハが他作曲家(主にヴィヴァルディやその周辺)の協奏曲を鍵盤楽器やオルガン用に編曲した作品群に含まれ、BWV 596 はその中でも壮麗かつ技巧的なオルガン編曲として知られています。本稿では、成立背景、楽曲の構成と特徴、編曲上の工夫、演奏上の留意点、代表的な版・録音などを詳述します。
成立と歴史的背景
バッハがこれらの協奏曲編曲に取り組んだのは主にヴァイマル時代(1713年頃)とされます。ヴァイマル在任中、イタリア・ヴェネツィア派の器楽曲、とりわけヴィヴァルディの《L'estro armonico》(Op.3)を通じてイタリア協奏曲の形式やリトルネッロ手法に触れ、それを鍵盤用に移し替えることで自らの作曲技法の研鑽を行いました。BWV 596 もその系譜に属し、原曲のオーケストラ的テクスチャをオルガンの複数のマニュアルとペダルで再現することを目指しています。
楽曲構成と楽想の特徴
BWV 596 は典型的な協奏曲形式の三楽章構成(急-緩-急)を踏襲しています。各楽章はリトルネッロと独奏的なエピソードとの交替を基礎にしており、バッハは原曲の素材を尊重しつつ、鍵盤楽器、特にオルガンの持つ持続音やポリフォニックな可能性を活かす形で再構築しています。
- 第1楽章(Allegro 相当):リトルネッロ形式で開始し、オーケストラ的なリズム動機と対位法的な展開が両立します。マニュアル間で主題が受け渡され、ペダルはしっかりとしたバスラインを提供します。バッハは原曲の主題を装飾や対位線で補強し、より重層的なテクスチャを作り出しています。
- 第2楽章(Adagio または Largo 相当):歌謡的で内省的な緩徐楽章。オルガンはサスティーンを活かしたレガートな表現が可能であり、主旋律を暖かく響かせる一方、伴奏部には丁寧な和声処理と分散された内声が付与されます。ここでのバッハの手法は、単なる転写ではなく、和声的・対位法的な付加が見られます。
- 第3楽章(Allegro / Presto 相当):技術的に華やかな終楽章。リトルネッロ主題が回帰するたびに変化が加わり、最後は快活で締まったフィニッシュに至ります。ペダルの独立性、スタッカートとトリルを含む装飾、手と足の抜群の連携が要求されます。
編曲上の工夫:弦楽アンサンブルからオルガンへ
バッハは単に旋律を右手に、伴奏を左手と足に移しただけではなく、オルガンの音色特性を活かすために複数の技法を採用しました。
- マニュアルの分割と対話:オーケストラの弦群を複数のマニュアルで分担させ、対話するように配置することで、オーケストラ的な立体感を再現しています。
- ペダルの活用:原曲の低音線を単なる移し替えに終わらせず、独立したバスの役割を与えることで、全体の推進力を維持しています。特に第1楽章と第3楽章では、ペダルの刻みや跳躍が重要です。
- 装飾と対位法の追加:バッハは和声や対位を付加して曲の内部構造を複雑化させ、鍵盤楽器ならではの多声音楽的魅力を引き出しています。
- 音色(レジストレーション)の考慮:オルガン独自のストップ選択により、リトルネッロ部分と独奏的エピソードを音色の対比で表現することが想定されています。
演奏上のポイント
BWV 596 を演奏する際に留意すべき点を、楽曲解釈と実技の両面から挙げます。
- テンポ設定とリトルネッロの均衡:各楽章でリトルネッロと独奏的部分のテンポ感をそろえること。特に第1楽章は躍動感を保ちつつ、構成の明瞭さを失わない速度が望ましい。
- 音色による構成描写:マニュアル間の音色を変えることで、ソロ群とリトルネッロ群の対比を作る。例えばリトルネッロはフル・リード系やディヴィジオン的な厚みを、歌う部分は柔らかいフルート系で表すなどの工夫が考えられます。
- ペダルの独立性:バッハのオルガン作品に共通する課題として、ペダルの音量とアーティキュレーションを左右の手とバランスさせることが重要です。特に快速楽章ではペダルの明瞭さが全体の推進力を決めます。
- 装飾の適切な使用:バロック演奏慣習に則ったトリルや短い装飾は有効ですが、原曲の性格を損なわない範囲で用いるべきです。緩徐楽章では過度の装飾は避け、歌唱性を第一に考えます。
- アーティキュレーションとフレージング:オルガンはサスティーンが強いため、フレーズの終わりや始まりでの微妙なエネルギー調整(強弱というよりはアタックとリリースのコントロール)が表現の鍵になります。
版と参考となる録音
信頼できる楽譜版としては、近代のウルテクスト(Bärenreiter 等)や歴史的校訂版が参照されます。演奏録音はオルガニストの解釈により音色やテンポ感が大きく異なりますので、複数の録音を聴き比べることを勧めます。歴史的にはヘルムート・ヴァルヒェ、マリー=クレール・アラン、現代演奏ではトン・クープマン等、古典から現代まで多くのオルガニストが取り上げています。
BWV 596 の意義と現代演奏への示唆
BWV 596 は、バッハが他者の器楽素材を素材として取り込み、自身の対位法的・和声的美学に照らして変容させた好例です。原曲のイタリア的エネルギーを保ちながら、鍵盤楽器としてのオルガンに相応しい重層的な構成に仕立て上げています。演奏面では、オルガンが持つ音色の多様性と物理的な持続特性を十分に理解し、それを曲想表現に結びつけることが重要です。
演奏・聴取のためのチェックリスト
- 楽譜:信頼できる校訂版を使用する(Urtext を推奨)。
- 楽器選定:バロック様式の楽器やバロック調整に近いオルガンを使えると原色に近い響きが得られる。
- レジストレーション:楽章ごとに明確な音色設計を行い、リトルネッロとエピソードの対比を意識する。
- テンポとリズム:バッハ的な厳密さと、イタリア協奏曲由来の躍動とのバランスを取る。
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参考文献
- IMSLP: Concerto in D minor, BWV 596 (score)
- Wikipedia: Concerto in D minor, BWV 596
- Bach Cantatas Website: BWV 596
- Naxos: Recordings and notes for BWV 596
- Bach Digital (総合データベース。原典・写本情報検索に便利)
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