バッハ:BWV976 協奏曲 ハ長調 — 編曲の背景と楽曲分析、演奏の聴きどころ
バッハ:BWV976 協奏曲第5番 ハ長調 — 概要と位置づけ
BWV976は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが鍵盤楽器のために編曲した協奏曲の一曲で、一般には「ハ長調の鍵盤協奏曲」として知られます。BWV番号体系における972〜987番台に含まれる一連の鍵盤協奏曲群は、バッハが1700年代初頭にイタリアの協奏曲(特にアントニオ・ヴィヴァルディを含む)を素材に鍵盤作品へと翻案したものとされています。これらの作品群は主にワイマール時代(1708–1717年)に作成されたと考えられており、BWV976もその流れに属します。
BWV976に関しては、原曲(原典譜)が特定されていないため、ヴィヴァルディなど特定作曲家のどの協奏曲を下敷きにしたかは明確ではありません。いずれにせよ、この作品はイタリアン・コンチェルトの典型的要素──対比に基づくリトルネッロ形式、明快な対位法的処理、技術的に活発な独奏パッセージ──を鍵盤言語に巧みに移し替えた点で重要です。
歴史的背景:バッハの編曲活動と時代状況
バッハは若い頃からイタリアの協奏曲様式に深い関心を示し、特にヴィヴァルディのオペラ・コンチェルトやソロ・コンチェルトに触発されて編曲を行いました。これらの鍵盤編曲(BWV972–987のグループ)は、バッハがイタリア式のリズム感や旋律的ダイナミクスを学び、自身の作曲語法へ取り込んでいく過程を物語ります。鍵盤のための編曲という形態は、コントラプンクト的な処理とヴィヴァルディ的な半音階進行や和声推移を結びつける実験の場ともなりました。
編曲が行われた正確な年次は作品ごとに異なりますが、概ね1713年前後、バッハがヴァイマル在任中にイタリア音楽に接した時期に集中しています。これらの編曲はバッハ自筆の写譜による伝承が多く、鍵盤曲として単独で演奏されることが可能な一方、オリジナルの弦楽合奏的効果を再現するために通奏低音や弦楽合奏を伴う編成で演奏されることも多いです。
楽曲構成と形式的特徴
BWV976は、典型的なイタリアン・コンチェルトの伝統に倣い、速–緩–速の三楽章構成をとることが一般的です(初楽章は活発なリトルネッロ風、中央楽章は抒情的で歌うような緩徐楽章、終楽章は再び快速で舞曲的な要素を含むことが多い)。バッハによる鍵盤編曲では、オリジナルの独奏楽器(たとえばヴァイオリン)の流麗なスケールやアルペッジョが鍵盤上に翻案され、もともとの弦楽器的語法を鍵盤的技巧へと変換するために、特有のフィガートやハンド・リーチを利用したパッセージが頻出します。
形式面では以下の特徴が挙げられます。
- リトルネッロと自由独奏部分の対比:主題群(リトルネッロ)がオーケストラ的(鍵盤では両手による和声進行や伴奏型)に示され、独奏部分が装飾的・即興風に展開する。
- 対位法的処理:バッハの手により、単なる翻案にとどまらず、対位法や模倣が随所に挿入されるため、鍵盤版独自の深みが生まれる。
- 和声的進行:イタリア的な明快な調性進行に加え、バッハ特有の和声連結や転調(属調への鮮やかな回帰や短調への短い遷移)が作品のドラマを豊かにしている。
各楽章の聴きどころ(技術的・表現的視点から)
第1楽章(快速): 軽快なリトルネッロ主題が繰り返される中で、鍵盤の独奏部分はヴィヴァルディ風の切れの良いスケールや跳躍を見せます。演奏者はフレージングの明晰さとリズムの推進力を維持しつつ、左手と右手の分離・連結をコントロールしてオーケストラ的な対比感を表現する必要があります。バッハの編曲ではしばしば和声の短い変化が導入され、アクセントの位置や音価感の操作が楽曲の躍動感を高めます。
第2楽章(緩徐): 中央楽章は抒情的な歌いまわしが主題となり、鍵盤のレガートと適切な装飾が重要です。ヴィヴァルディ原曲からの翻案であれば、歌うようなヴァイオリンの旋律線が鍵盤で再現されるため、響きの持続感を工夫すること(=ハープシコードであれば指の切れの調整、フォルテピアノではペダルの活用など)で表情が得られます。バッハ自身が対位法的な陰影を加えている場合、隠れた模倣主題の浮かび上がらせ方も解釈上の鍵になります。
第3楽章(快速): 終楽章は舞曲的・活発なリズムで締めくくられ、跳躍や反復動機による推進力が中心です。奏者はテクニック的に正確でありながら、全体のアゴーギク(テンポ感の揺れ)や小さなルバートを用いて曲全体の緊張と解放を巧みに演出します。特に終結部に向けてのダイナミクスの構築は聴衆に強い印象を残します。
編曲としての特色:原曲と鍵盤語法の橋渡し
BWV976を含む鍵盤協奏曲群の魅力は、異なる楽器の語法を鍵盤上で如何に自然に再現するか、またバッハ自身の作曲的個性がどのように介入しているかにあります。弦楽器的なアーティキュレーション(ヴァイオリンの長いポルタメントやスピカート的な短い音列)は鍵盤では別の手法で示されねばならず、バッハは時に左手に低音の付随パターンを与え、右手の旋律線をより歌わせることで弦楽的な立体感を生み出しています。
また、バッハはしばしば原曲に対して和声や対位の加工を行うため、鍵盤版は単なる写しではなく独立した作品としての価値を持ちます。この点が演奏・研究の双方向における興味の源泉となっています。
演奏上の留意点(歴史的実践と現代的解釈)
演奏にあたっては以下の点がしばしば議論されます。
- 楽器選択:ハープシコード、クラヴィコード、フォルテピアノ、またはモダン・ピアノ。各楽器は音色や持続音の扱いが異なり、曲の響きに大きく影響する。
- 通奏低音と弦楽合奏の有無:完全なソロ鍵盤曲として演奏するか、通奏低音+弦楽合奏でオーケストラ的効果を補うかで解釈が変わる。歴史的実践では小編成の弦楽合奏を伴うことが多い。
- 装飾・オルナメント:バロック時代の慣習に則った装飾(トリル、モルデント等)をどの程度施すかは、演奏者の判断や使用楽器に依る。
- テンポとアゴーギク:リトルネッロ部分は明確な推進力が必要だが、独奏部の表情を活かすための小さな揺れや間の取り方が作品のドラマを作る。
版・楽譜・おすすめ録音
研究・演奏用には以下の点を参考にしてください。近代的な校訂としては、信頼性の高いニュー・バッハアウスガーベ(Neue Bach-Ausgabe)や学術的注釈付きの版が利用できます。無料かつ実演用に便利なのはIMSLPなどで公開されているバッハ自筆写譜や版のスキャンですが、校訂版と照合することを推奨します。
録音については、ハープシコード独奏と小編成弦楽合奏を伴う歴史的実践派の演奏、ならびにフォルテピアノやモダン・ピアノでの解釈がそれぞれ興味深い比較を提供します。特定の録音はここではあえて列挙しませんが、演奏者の楽器選択とテンポ感を基準に複数の録音を聴き比べることをおすすめします。
学術的視点と今後の研究課題
BWV976のような鍵盤編曲は、バッハの受容史(特にイタリア音楽の受容)を研究する上で重要な証拠です。原曲が特定できない場合、写譜の比較や和声構造の分析によって出典推定が行われることがありますが、確証を得るためにはさらに文献学的な検討や他写本の発見が必要です。また、鍵盤上での音色的工夫や装飾の実践がどのように成立したかを、当時の奏法記述や演奏慣習と照らして再検討することも重要です。
まとめ:BWV976を楽しむために
BWV976は、バッハが他者の作品語法を吸収し、自らの contrapuntal な手法と融合させた典型例です。演奏者は楽器選択、装飾、アーティキュレーション、テンポ感のいずれにおいても歴史的知見と個人的表現のバランスを探ることが求められます。聴衆にとっては、ヴィヴァルディ風の躍動感とバッハならではの和声的深みが同居するこの作品を、異なる楽器・演奏スタイルで聴き比べることで新たな発見が得られるでしょう。
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参考文献
- IMSLP: Keyboard Concerto in C major, BWV 976 (autograph and editions)
- Wikipedia: Keyboard concertos by Johann Sebastian Bach
- Bach Digital (作品データベース検索)
- Neue Bach-Ausgabe(出版社・参考情報)
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