バッハ『フーガの技法(BWV1080)』徹底解説:構造・未完の謎・演奏と受容の歴史
序論:『フーガの技法』とは何か
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685–1750)が晩年に取り組んだ傑作群のひとつが、通称『フーガの技法(Die Kunst der Fuge)』、BWV1080です。本作は一見して学術的な対位法の教本のような体裁を取っていますが、その音楽的含意は理論の範囲をはるかに超え、音楽史上稀に見る究極の対位法実践書でもあります。本稿では成立事情、構成と対位法的手法、未完の最終フーガにまつわる問題、楽器編成と演奏実践、そして受容史と研究の動向を総合的に解説します。
成立と出版:いつ、どのように生まれたのか
『フーガの技法』の制作はおおむね1740年代後半から1750年にかけてと考えられています。バッハは晩年に到って対位法の探究を深め、複数の対位作品を整理して本作を編纂したとみられます。バッハは1750年4月に没しましたが、本作は生前に最終的な出版準備が整わなかったため、死後の1751年に出版社ブレートコプフ(Breitkopf)によって初めて刊行されました。
著者自身が楽器編成を指定しなかった点も本作の大きな特徴です。各声部は独立した五線で記譜される“オープンスコア”の形式が採られており、これが「理論書としての提示」と「演奏可能な作品」とのあいだで解釈の幅を生んでいます。
作品の全体像と編成
一般に本作は「フーガ(Contrapuncti)14曲と4つのカノン」を中心に構成され、最後に未完の〈四声のフーガ〉(いわゆる第14番、Contrapunctus XIV)が続きます。各曲は主題や写し、反行(inversion)、増長(augmentation)、縮小(diminution)、ストレッタ(stretto)、二重・三重対位(double/triple counterpoint)、そしてさまざまなカノン技法といった高度な対位法技法の展開場として配列されています。
- フーガ群(Contrapunctus I〜XIII、XIVは未完):単純フーガから始まり、次第に技法的に複雑化する構成。
- カノン群:音程や律速を変えたさまざまなカノンによる実例。
- 最終フーガ(未完):複数の主題を総合する壮大な四重フーガで、途中で筆が止まっています。
主題と対位法的特徴
本作の中心にあるのは、極めて洗練された「短い主題」の素材です。バッハはその単純な主題をもとに、反行・転回・増減・逆行・移調・カノン等々の技法で多彩に変化させ、同一素材から多様な音楽的意味を引き出します。こうした手法は、ルネサンス以来の対位法伝統を吸収しつつ、バロック終焉期における高度に抽象化された表現として結実しています。
特徴的なのは、作品全体が“声部の平等性”を保っている点です。バッハはテキストの基準となる独立した「主要声部」を設定せず、各声が常に対等に扱われることで網羅的な技法展示を可能にしています。
最終フーガとB–A–C–Hの動機
『フーガの技法』が特に注目されるのは、未完の最終フーガ(通称Contrapunctus XIV)の存在です。ここでは複数の既出主題が総合される試みがなされ、さらに「B–A–C–H」(ドイツ式の音名でB♭–A–C–B♮)と解釈される動機が登場するとされます。この動機の登場は、多くの研究者・演奏家に「個人的な署名」や自己言及として解釈されてきました。
最終フーガは途中で筆が止まっており、バッハ没時には完成していなかったことが確かです。これにより、さまざまな補筆・補完が行われ、補筆版ごとに作品の終結が異なるのも本作の興味深い側面です。
楽器編成と演奏実践
原著のスコアは特定の楽器を指定しないオープンスコア形式であるため、演奏法は多様です。歴史的な文脈では、チェンバロやオルガンでの演奏が自然な選択とされますが、19〜20世紀にはピアノ独奏版、弦楽四重奏編曲、管弦楽編曲など多岐にわたる編曲・解釈が生み出されました。
楽器ごとの演奏効果は大きく異なります。チェンバロやオルガンでは対位の透明性が際立ちますが、ピアノではダイナミクスと音色の幅が強調され、室内楽編成では声部の提示を分散できるためテクスチュアの立体感が増します。現代の演奏慣行では、作曲上の均質性と音色的差異とをどのように両立させるかが重要な解釈上の課題です。
補筆・校訂・版の問題
未完の最終フーガに対しては、19世紀以降、多数の補筆や改訂が提案されてきました。補筆のアプローチは大きく分けて以下のようになります。
- 補完して「完成形」を提示する試み(20世紀に多数)。
- 未完のまま提示し、作曲家の断片をそのまま鑑賞させる立場。
- 編曲や編成の変更によって、未完部分を別の方法で音楽的に解決する試み。
学術的な校訂では自筆譜や写譜の諸資料を突き合わせ、原典に忠実な版を作る努力がなされています。現代の主要な校訂出版社(Bärenreiter、Breitkopfなど)は、注記と比較資料を付した批判版を刊行しており、研究・演奏の基礎資料となっています。
受容と影響:音楽史における位置づけ
『フーガの技法』は発表当初から「理論的作品」として評価されることが多かったものの、その音楽的完成度と革新性は19世紀以降のバッハ再発見運動や20世紀の演奏解釈史の中で再評価され続けています。対位法の究極的到達点として現代作曲家にも影響を与え、20世紀の作曲家たちはここから様々な対位的・構造的着想を得ました。
同時に、本作は「音楽と言語」「作曲家の自己参照」という問題を提示します。B–A–C–Hの動機や未完の終結は、テキスト(楽曲)に込められた作曲家のメッセージ性について多くの議論を喚起しました。
聴きどころと分析の指針
鑑賞の際には、以下の点に注意すると理解が深まります。
- 主題の反復と変形を追い、どの時点でどの技法(反行・増縮・カノン等)が用いられているかを確認する。
- 声部の独立性と互いの絡み合いに着目し、バランスと対話の構造を聴き取る。
- 最終フーガでは既出主題の統合の試みを追い、未完部分が響く意味を考える。
結論:学問と演奏の交差点にある作品
『フーガの技法』は、バッハの対位法探究の集大成であり、同時に音楽理論と実演芸術との接点に位置する特異な作品です。未完という事実は作品を余白を持つテクストに変え、補筆や演奏解釈を通じて今日まで生き続ける理由ともなっています。演奏者は理論的厳密さと音楽的表現との均衡を常に問い直さなければならず、聴き手はその試みに耳を澄ますことで、バッハの対位法の豊かさと深淵をより身近に感じられます。
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参考文献
- Encyclopaedia Britannica: Art of the Fugue
- IMSLP: Die Kunst der Fuge, BWV 1080(スコア)
- Bach-Digital(バッハ関連デジタルアーカイブ)
- Christoph Wolff, "Johann Sebastian Bach: The Learned Musician"(抜粋検索・参考)
- David Schulenberg, "The Keyboard Music of J.S. Bach"(参考資料)


