はじめに — 『不調和な調和』とは何か 「不調和な調和」という副題は近現代の受容における読み替え・解釈の一例で、文字どおり“和声的には不安定であるが、対位法的には完全に成立している”というパラドックスを示唆します。BWV1086は作品番号から見てバッハのカノン群に含まれる短い二声の作品であり、二声でありながら驚くほど豊かな響きの含意を持つことから、こうした印象を与えてきました。本稿では、まず作品の基礎的事実を押さえた上で、具体的な対位法的分析、和声的読み替え、歴史的背景、演奏上の注意点、さらに聴き手としての受容の仕方までを包括的に論じます。
作品の基本情報 BWV(Bach-Werke-Verzeichnis)に登録された1086番は、二声のカノンとして伝えられています。バッハは生涯に多数のカノンを残し、その多くは作曲上の練習、教育用の素材、宗教的寓意を込めた遊戯、あるいは献辞的作品としての性格を持ちます。BWV1086も、こうしたカノン伝統の中に位置づけられる短小な作品で、対位法技法の展示と含意の実験が同居しています。 作品がいつ、どの文脈で作られたかについては、カノン作品一般に見られるように確固たる成立年が明記されていない場合が多く、写本史料や他の作品群との照合から推定されることが多い点に注意が必要です。バッハのカノン群や対位法的練習(例:『フーガの技法(Die Kunst der Fuge)』や家庭用の写本に含まれる短いカノン類)との連関から、BWV1086もその一環として理解されることが多いでしょう。
対位法の技法:二声で成立させる方法 二声カノンは、単純な模倣だけでなく、時間的遅延や音程的移動、反行(inversion)、伸長(augmentation)などの技法を組み合わせることで豊かな効果を生み出します。BWV1086において注目すべきは、限られた音域・声部数にもかかわらず、バッハが緻密な声部進行と注意深い不協和の扱いによって「完全性」を獲得している点です。 ・模倣の種類:単純模倣(同一音形の遅延)か、間隔移動を伴う模倣かで、響きの性質が変わります。BWV1086では、開始動機が短いため同一模倣が主体となりつつ、ところどころで半音的接近を生む運動が見られます。 ・反行・転回の利用:二声カノンでは転回を用いると和声的に意外な響きが生まれます。反行が採られる場合、上声と下声の縦関係に新たな不協和が発生しますが、バッハはそれを解決するための接続をあらかじめ設計します。 ・暫定的な不協和の扱い:経過音、すれ違い、二つの声部の微妙なリズム差が「不調和」を引き起こしますが、それは最終的に機能的あるいは文脈的に解決されます。バッハの巧みさは、聴き手に一瞬の緊張感を与えつつ、それを作品の構造的必然として納得させる点にあります。
和声的読み替え:機能和声と対位法の境界 17–18世紀の対位法は、今日の意味での機能和声(トニック・ドミナントなど)とは異なる枠組みで音の関係を扱います。BWV1086のような二声カノンは、絶えず独立性を保持する二声の縦の関係から生じる和音連鎖を部分的に意図しますが、最終的には対位法上の音程関係と解決動作に重心があります。 したがって、楽譜を和声楽的に単純化して分析すると見落とす点が出てきます。例えば、短い助音や経過音が和声機能上は“外された音”と見なされるかもしれませんが、対位法的には次声部との掛け合いで意味を持ちます。BWV1086では、こうした経過音の使い方が“不調和”の感覚を生み、しかしそれが作品の成立条件になっているのです。
具体的な楽曲分析(聴取・楽譜参照が前提) ここでは楽譜を直接示す代わりに、分析の着眼点を提示します。実際に楽譜(写本・版)を手元に置いて確認する場合、以下の点に注意して読み進めてください。 ・開始動機とその間隔関係:初めの3〜4音の動きがどのように遅延して模倣されるか。特に半音階的接近があるか否かを確かめると、緊張の発生源が掴めます ・縦の不協和点の場所と種類:長三和音中の9度や7度、あるいは二つの声のクロスリレーション(例:FとF#が別声に同時に現れる等)があるかを探します。これらが“不調和”の印象を与えます。 ・解決の仕方:不協和がどのように移動・解決されるか(接続音、予備和音、分割する動きなど)を追うことで、バッハの設計意図が見えてきます。 ・全体のアーチ:二声という制約の中で、どの地点が緊張の頂点となり、どこが終結への返還になるか。結尾部の和声処理は作品の「意味付け」を決定します。
歴史的・教育的文脈 バッハのカノン作品は、教会音楽の中での即興的・示唆的な用法、あるいは家族・弟子に対する教示の一環として残されたことが多いです。相互参照のある写本群(家庭用の写本、弟子への筆写、あるいは後年の編纂)を手がかりに、研究者は作曲時期や用法を推定します。BWV1086もこうした伝統の中で理解されるべきで、単に“技巧見せ”だけではなく、教育的・宗教的メッセージを含んでいる可能性があります。
演奏上の示唆 — 不協和の聴かせ方 演奏者にとってBWV1086の魅力は、「どのように不協和を聴かせ、解決させるか」にあります。二声の明瞭さを保ちながら、微妙な音量差(テヌートと弱奏のコントラスト)、アーティキュレーション(軽いアクセントやレガートの差)、テンポルバート(わずかな遅れ)を用いることで、緊張と解放を効果的に演出できます。 ・楽器選択:クラヴィーア(チェンバロ)ではペダルやサステインがないため、声部の輪郭を鍵盤タッチで作る必要があります。チェンバロと小品のリュート属楽器での演奏でも、響きの残響感が異なるため不協和の質が変わります。 ・テンポ設定:速すぎると対位の輪郭が失われ、不協和がただの雑音に聞こえます。遅すぎると緊張が持続し過ぎる。適度な中庸が望ましい。 ・デュナーミクとフレージング:二声のバランスを微妙に変えることで、ある音を“疑問”として際立たせ、次の音で“回答”させることができます。
受容史と現代の読み替え 近代以降、バッハの短小な対位法作品は学究的な対象であると同時に、現代作曲家や演奏家にとっての素材になってきました。特に「不調和な調和」という観点は、20世紀以降の和声観を背景にした再解釈であり、元来のバッハ的対位法の文脈と近代的和声観との対話を促します。結果として、BWV1086のような小品は、今日では教育的教材、レパートリーの間のブリッジ、あるいは現代的演奏解釈の試金石として演奏・録音されることが増えています。
まとめ — BWV1086が示すもの BWV1086は、二声という制約の中でバッハが示した対位法の精緻さと、和声的緊張感を巧みに操る才気を見ることができる小さな宝石です。「不調和な調和」という観点は、作品の表層的な和声感と深層にある対位法的必然性の二重構造を見事に照らし出します。演奏者はその両面を同時に意識し、聴き手は各不協和点がどのように解決されるかを追いながら聴くことで、作品の深さをより実感できるでしょう。
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https://everplay.jp/delivery 参考文献 Bach Digital(バッハ・デジタル) — 作品目録および写本資料のデータベース Christoph Wolff, Johann Sebastian Bach: The Learned Musician(Oxford University Press) Johann Sebastian Bach — Wikipedia(概説) IMSLP(楽譜検索:BWV 1086) Grove Music Online(オンライン音楽辞典)