下部発酵(ラガー)の全貌:微生物・醸造プロセス・味わいを科学する
はじめに:下部発酵とは何か
下部発酵(かぶはっこう、英: bottom fermentation)は、主にビール醸造で用いられる発酵様式の一つで、発酵後期に酵母がタンクの底部に沈降(フロッキュレーション)する性質を持つ酵母を使うことを指します。一般に「ラガー(Lager)」と呼ばれるビール群がこの方式で造られ、低温でゆっくりと発酵・熟成させることで、クリーンでスッキリとした味わいが特徴になります。ここでは、歴史的背景、微生物学的特徴、醸造条件、味わい形成メカニズム、実務上のポイントと注意点、代表的スタイルなどを詳しく解説します。
歴史的背景:冷蔵保存からラガーの誕生へ
「ラガー」という言葉はドイツ語の"lagern"(貯蔵する)に由来し、アルプス周辺やバイエルン地方の洞窟や地下貯蔵庫で冬季の低温を利用して貯蔵・熟成したことがルーツです。18〜19世紀にかけて、低温で発酵する酵母がビール醸造で利用されるようになり、19世紀半ばのピルスナー(チェコ・ピルゼン発祥)などが有名です。産業化と冷蔵技術の普及により、ラガービールは世界的に広まりました。
主要酵母と遺伝学:Saccharomyces pastorianus の正体
下部発酵で使われる主要な酵母はSaccharomyces pastorianus(ラガー酵母)です。S. pastorianusは遺伝学的にハイブリッドであり、熱帯型酵母Saccharomyces cerevisiaeと、後に同定された冷温適応性を持つSaccharomyces eubayanusの遺伝子を併せ持つとされています。S. eubayanusの存在が明らかになったのは2011年の報告で、これによりラガー酵母の起源と低温適応の理解が大きく進みました(Libkind et al., 2011)。
発酵温度と動態:低温でゆっくり進行する理由
主発酵温度:一般に7〜13℃程度がラガー酵母の主発酵温度帯です。低温では酵母の代謝が緩やかになり、揮発性副生成物(エステルや高級アルコールなど)の生成が抑えられるため、クリーンで繊細な風味が得られます。
二次発酵(ラガーリング):主発酵終了後に0〜4℃程度で数週間〜数ヶ月にわたって低温貯蔵する工程をラガーリング(lagering)と呼びます。これによりタンパク質やポリフェノールの凝集、香味成分の緩やかな変化、微量成分の安定化が進みます。
ディアセチル除去(Diacetyl rest):ラガー醸造では主発酵後に一時的に温度を上げ(通常は10〜20℃程度に短期間)、酵母によりジアセチルを還元・除去させる工程を行うことが一般的です。これによりバター様の不快な香りが低減されます。
風味化学:何がラガーを“クリーン”にするのか
低温発酵による酵母代謝の抑制は、エステルやフェノール類といった揮発性の香味化合物の生成を減少させます。具体的には、エチルアセテートやイソアミルアセテートなどのフルーティーなエステルが少なく、代わりに麦芽の甘味やホップの本来の苦味・香りが前面に出ます。さらにラガリングによりタンパク質やポリフェノールが沈殿・吸着され、雑味が減少してクリアな外観と口当たりが得られます。
醸造プロセスの実務ポイント
酵母管理:ラガー酵母は高いフロッキュレーション性を持つ株が多く、スターター(酵母培養)を十分に行い、ピッチング量や酸素供給を適切に管理することが重要です。低温下での発酵では初期の酵母活性を確保するために良好な酸素化が求められます。
温度管理:低温での発酵は時間がかかるため、温度管理が製品品質に直結します。温度が高いとエステルが増え、低いと発酵が停滞することがあるため、推奨範囲内での制御が必須です。
ディアセチル対策:ディアセチルは中間代謝産物で、発生後に酵母が再吸収・還元することで除去されます。発酵の終盤に温度を適度に上げる(ディアセチル・レスト)ことで除去速度を高め、オフフレーバーを防ぎます。
澱下げとろ過:下部発酵では酵母が底に沈むため澱下げは比較的容易ですが、完全な清澄や安定化のためにろ過や冷却処理を併用することがあります。
代表的なラガースタイルと特徴
ピルスナー(Pilsner):非常にクリーンでホップの香りと苦味が際立つ。淡色でクリスプな仕上がり。
ヘレス(Helles):ドイツの淡色ラガー。麦芽の甘味とバランスの良いホップ。
メルツェン/オクトーバーフェスト(Märzen):少し濃いめでモルト感が強い。
ボック(Bock):高アルコールでリッチなモルトフレーバーを持つラガーの一群。
ドッペルボック、ドゥンケルなど:地域や醸造法で多様な表現が可能。
下部発酵と上面発酵の比較(要点)
酵母の挙動:下部発酵は酵母が沈殿し、上面発酵は発酵中に泡や表面で活動する酵母群が多い。
温度:下部発酵は低温(7〜13℃)、上面発酵は高め(15〜25℃程度)が一般的。
風味:下部発酵はクリーン、上面発酵はフルーティーやスパイシーな副生成物が強く出る。
産業的課題と技術革新
冷蔵設備のコストや長期ラガーリングによる在庫負担は産業的に大きな要因でしたが、酵母育種や澱下げ技術、ろ過・安定化の進歩により工程の短縮化や高効率化が進んでいます。近年は低温適応性を持ちながら風味多様性を付与するハイブリッド株の研究や、酵母の管理ソフトウェア、タンク設計の最適化などが進んでいます。
自宅醸造での実践ポイント
温度管理:家庭用冷蔵庫や温度制御付き発酵器(fermentation chamber)を使い、主発酵とラガーリングの温度帯を正確に守る。
酵母スターター:低温発酵ではスターターを作って酵母の細胞数と活性を確保することで、停滞や未発酵を防げる。
時間のゆとり:ラガーは完成までに時間がかかる。短期間での品質確保には、酵母選び・酸素管理・温度制御が鍵。
よくある誤解と注意点
「下部発酵=低温のみ」:低温は重要ですが、適切な酸素供給や栄養、酵母健康の管理が伴わなければ良い発酵は得られません。
「ラガーは単調」:適切なマルティング、ホップ選択、酵母株の選択により多彩な風味表現が可能です。
まとめ
下部発酵は低温発酵を特徴とする技術体系であり、酵母の遺伝学的背景、温度・時間管理、ディアセチル処理やラガーリングなど複数の工程の最適化によってクリーンでバランスの良いビールを生み出します。産業的にも趣味的にも奥が深く、伝統と最新科学が交差する分野です。これらの基本を理解することで、ラガーの設計や風味コントロールの幅が広がります。
参考文献
- Libkind, D. et al., 2011. Microbe from Patagonia provides insight into the origin of lager yeast. Nature. (S. eubayanus 発見に関する報告)
- Chris White & Jamil Zainasheff, "Yeast: The Practical Guide to Beer Fermentation" (Brewers Publications)
- John Palmer, How to Brew(オンライン版) — ラガー醸造の温度管理と手順
- The Oxford Companion to Beer (Garrett Oliver 編) — ラガーと歴史的背景
- BJCP(Beer Judge Certification Program)スタイルガイド — ラガー系スタイルの分類と特徴
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