モーツァルトの下品なカノン K.233 (K6.382d) — 真相と歴史、演奏上の論点
イントロダクション:なぜこの“下品な”作品が注目されるのか
ウルフガング・アマデウス・モーツァルトに関して語られるとき、宗教曲やオペラ、交響曲と並んで「小品」「宴会用カノン」といったジャンルがしばしば話題になります。その中で特に刺激的に取り上げられるのが、下品な歌詞を持つ小合唱曲群です。本稿は、しばしばK.233(新版カタログではK.382dなどと表記される場合がある)とされ、英訳や通称で“Leck mich …/Trinklied”と結びつけられる一連の俗曲的カノンについて、史料的検討、作曲家本人の関与の有無、音楽的特徴、現代の受容と演奏上の留意点をできるだけ正確に整理・考察します(作品の帰属については学界で議論がある点を重視して記述します)。
1. 背景:18世紀ウィーン・ザルツブルクの「宴会音楽」とユーモア
18世紀の音楽生活では、正式なコンサートや教会音楽とは別に、友人や同僚が集う私的なサロンや食卓で歌われる“glee”や“canon”(カノン)といった短い合唱曲が盛んに作られました。モーツァルト自身も裕福なパトロンや友人たちとの社交の場で、簡潔で機知に富んだカノンを楽しく口ずさんでいたことが彼の手紙や当時の写しから窺えます。
こうした場では、俗っぽい言葉や下品なジョークが飛び交うのが普通で、歌詞もその場の受けを狙って意図的に卑俗なものが選ばれました。今日の感覚からは不快と捉えられる表現も、当時は“仲間内の親密さと娯楽”を示す一手段でした。
2. 問題の作品とカタログ表記の混乱
「Leck mich im Arsch(俺の尻をなめろ)」や「Trinklied(酒を飲む歌)」といったタイトルや断片的な歌詞は、複数の写本や版で違ったK番号(クーシェル番号)が与えられて伝わっています。クーシェル目録は改訂を重ねたため、旧番号と新版(K6、Köchel第6版など)とで表記が食い違うことがあり、これが一般向けの混乱を招いてきました。例えば、ある短い下品なカノンは古い版でK.233とされたが、新版では別の補遺番号(たとえばK.382に付随する英字)として扱われることがあります。
重要なのは、単に番号が変わっただけでなく「その作品が誰の筆跡で伝わるか」「初出写本の出どころ」「テキスト(歌詞)の多様性」が帰属を判断する上で鍵となる点です。ニュー・モーツァルト=アウトガーベ(Neue Mozart-Ausgabe, NMA)やモザルテウムのデジタル・エディションでは、こうした作品に対して「真作」「疑義付き」「偽作(spurious)」といった注記がなされています。
3. 帰属問題:なぜ「偽作」とされるのか
いくつかの短い下品なカノンがモーツァルト真作とされてきた一方で、近代学術の検討により「疑わしい」あるいは「他者作と考えられる」例が確認されています。主な理由は次の通りです。
- 筆写の問題:現存する写本の手がモーツァルト本人の筆跡でない場合、単に彼の書庫や友人の書庫で楽譜が混入した可能性がある。
- 様式の不一致:旋律や対位法の扱い、和声進行が当該期のモーツァルトの作風と明らかに異なる場合、帰属に疑問符が付く。
- 歌詞の変異と伝承経路:複数の異なる卑語歌詞が同一の旋律に当てられていることが多く、これは宴会用の替え歌として広く流用されたことを示唆する。
- 他作曲家への帰属の可能性:当時の同業者や友人(例:地方の楽士やアマチュア作曲家)による創作が、後の写本で誤ってモーツァルトに紐づけられたケースが知られる。
具体例として、学術編集や図版で「この作品は様式的にモーツァルトの手によるとは考えにくい」とされ、カタログ上で“spurious”や“doubtful”の注記が付けられる例があることを留意してください。
4. 音楽的特徴と演奏実態
こうした短いカノンは通常、三声または四声の簡潔な対位法を用い、和声は単純でリズムも明快です。歌詞が重要な役割を果たすため、旋律自体は覚えやすく、反復と変形で笑いを誘う設計になっています。演奏するときのポイントは以下の通りです。
- 音色と態度:本質的にジョーク曲なので、行儀よく上品に処理してしまうと効果が失われる。だが下品な表現のみを強調するのも現代の聴衆には過剰に映る可能性がある。
- 言語と発音:原語(当時のオーストリア訛りのドイツ語)を尊重することは重要。ただし、歌詞が不快と判断される場では代替訳や伏字・笑い声で代用することもある。
- 歴史的演奏法:ピリオド楽派の演奏では、声部のバランスとテクスチャの透明性が求められる。宴会での即興的な演奏を再現するなら、テンポやアクセントに柔軟性を持たせると良い。
5. 受容史:当時と今日のギャップ
当時は仲間内の娯楽であったものが、近代のモーツァルト研究と出版学の発展により公に出ると、倫理的な議論を呼びました。19世紀にはモーツァルトの高潔なイメージを守るためにこうした資料はしばしば抑えられ、20世紀になって資料批判が進んでから広く紹介されるようになりました。
現代では、学術的興味や「作曲家の人間像」を探る資料として注目される一方で、コンサートでの上演時には聴衆配慮が必要です。古楽演奏家や指揮者の間でも扱い方に差があり、テキストを伏せる、訳語を和らげる、あるいは解説を添えるなどの工夫がなされています。
6. まとめと研究の現在地
短く言えば、K.233(あるいは新版クーシェル表記でK.382dとされる写本に関連するもの)として伝わる下品なカノン群は、モーツァルト研究における「面白くも厄介な」問題を象徴しています。史料批判は「単純な発見→確定」という図式ではなく、写本の来歴、筆跡、様式比較、歌詞の伝承など多層的な検討を要します。その結果、ある作品は真作と認められ、別の作品は疑義や偽作と注記されることになります。
演奏・公開にあたっては、学術的な注記とともに歴史的文脈を説明することで、聴衆に誤解を与えず、当時の社交文化の側面を正しく伝えることができます。
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参考文献
- IMSLP: "Leck mich im Arsch" (Mozart, Wolfgang Amadeus) — 楽譜と写本情報。
- Wikipedia: Leck mich im Arsch — 作品群の概要と帰属議論の概説(参考情報)。
- Neue Mozart-Ausgabe / Digital Mozart Edition (DME) — モーツァルト作品の学術的全集と注記(帰属・写本情報を参照)。
- Maynard Solomon, "Mozart: A Life"(抜粋閲覧可) — モーツァルトの人間像と手紙・逸話に関する考察。
- Mozarteum Foundation Salzburg — 所蔵資料と研究情報(デジタルアーカイブを含む)。
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