バッハ BWV741–765:25のコラール編曲を巡る深層ガイド
序論:BWV741–765とは何か
BWV741–765という番号範囲は、一般に短いコラール編曲(コラール・プレリュード)群としてリストされます。これらは宗教的な賛歌(ルター派のコラール)を素材にした小品で、教会暦に即した実用的な作品から、鍵盤楽器の学習・練習用に適した短い編曲まで、その用途や成立時期、作曲者の帰属について研究者の間で多様な見解が存在します。本稿では、これら25曲をめぐる音楽的特徴、歴史的背景、版・演奏の留意点、そして聴きどころを可能な限りファクトに基づいて整理し、深堀りします。
BWV番号の意義とまとまりの歴史
BWV(Bach-Werke-Verzeichnis)はバッハ作品の総合目録であり、単に番号が連続しているからといって同一時期の作品群や単一のプロジェクトに由来するとは限りません。BWV741–765のまとまりは、近代の写本や版で便宜上まとめられたもので、個々の作品は様式や起源が必ずしも一様ではありません。したがって、この範囲の作品群を論じる際には、個々の曲の成立史や写本史、版の注記(バッハ本人の筆跡か、弟子や後代の写譜か)を丁寧に検証する必要があります。
様式的・楽式的特徴
BWV741–765に含まれる短いコラール編曲群は、一般に次のような共通項を持ちます。
- 素材:ルター派の伝統的なコラール旋律(コラール・メロディ)を基礎にしている。
- 長さ:短小で、通常1〜2ページに収まる前奏的な性格の作品が多い。
- 機能:リトル・コラール(短い前奏)として礼拝の中の唱歌導入や、オルガン奏者のための実践的教材として使われた可能性がある。
- テクスチャー:メロディの提示を明確にするための右手旋律と左手・足鍵盤の伴奏、あるいは対位法的な処理が見られる。
- ハーモニーと装飾:簡潔な和声進行の中に装飾音や転回形、時に装飾記号が用いられ、演奏上の細やかな解釈を要求する。
以上の特徴は、バッハの『オルゲルビュッヒライン(Orgelbüchlein)』や『大きな18の前奏曲とフーガ』など他のコラール前奏集と比べても、より簡潔で実用性を重視したものが多い点が目立ちます。
成立年代と写本史
これら短いコラール編曲の成立年代は作品ごとに異なります。いくつかはバッハ自身のライフワーク期(ライプツィヒ時代)に遡ると考えられる一方、いくつかは後代の写譜や伝承に由来し、真作性(authorship)が疑問視されている曲もあります。学術的な検討は、筆写の筆跡学(手写譜の識別)、調性や和声進行の様式比較、写譜者による注記、さらには伝承の系譜(誰が誰に写譜を渡したか)など、多角的に行われます。確実にバッハの手になると認められている曲と、帰属が不確かな曲(あるいは弟子や同時代の作曲家の作品と考えられるもの)が混在するのが特徴です。
各作品の注目点(概観)
ここでは個別の楽曲を逐一挙げるのではなく、グループ内に見られる典型的な音楽的アイデアを紹介します。
- コラール旋律の声部配置:原旋律を右手で明瞭に歌わせるタイプ、ベースで提示して上声に装飾を施すタイプ、内声に対位法的処理をほどこすタイプなど多様性がある。
- 対位法と和声進行のバランス:短い中にも短いフーガ的な進行や模倣が見られ、バッハならではの機能的和声への収束が確認できるものがある。
- リズム的装飾とプロポーション:舞曲的な要素やシンプルなモチーフの反復を用いて、信仰的なテキストの感情を反映させる巧みさがある。
作曲・帰属をめぐる議論
小品群に付きまとうのは「真作性」の問題です。写本の出自や音楽様式がバッハの他の既知の作品群と一致しない場合、研究者たちは次の点を検討します。
- 筆跡と写譜の系譜学的証拠
- 和声進行や対位法のスタイル比較
- 他作曲家(バッハの弟子や同時代の北ドイツ作曲家)との音楽的類似性
- 18世紀以降の出版や写本の誤伝承の可能性
これらを総合して、ある曲がバッハ本人の作品とする注釈を付すか、帰属不可・同行作者の可能性ありとするかが決定されます。最新の権威ある情報源としては、デジタル化された写本コレクションや、Neue Bach-Ausgabe(NBA)などの批判校訂版、そして Bach-Digital のデータベースを参照することが推奨されます。
演奏上の実践と解釈のポイント
短いコラール編曲は一見簡素に見えて、演奏解釈では多くの選択が必要です。以下に実践的な指針を示します。
- 音色とストップ選択:礼拝用の実用曲としての側面を考慮し、コラール旋律を明瞭に出すことを最優先にする。フルストップよりもプライマリな合成音色や柔らかいトーンが有効な場合が多い。
- テンポ感:テキスト(賛歌の歌詞)に即した歌うテンポを基準にする。原旋律の語尾や句読点を意識してフレージングを組み立てること。
- 装飾とヴィブラート:バロック様式の装飾は楽譜にある装飾記号を尊重しつつ、無駄な過度なロマンティックなルバートやレガートを避ける。
- 足鍵盤の扱い:短い前奏であってもペダルの役割は和声と音色の土台を作る点で重要。ペダルの音量と音質は手鍵盤とのバランスで決める。
校訂版と版の選び方
研究者・演奏家は新版の批判校訂(Neue Bach-Ausgabe)や信頼できる出版社の校訂譜を参照すべきです。諸版には写譜者の誤記・後代の改変が含まれている場合があるため、可能であれば原典版(ファクシミリ)と校訂者の注記を照合して解釈の根拠を立てることが重要です。オンラインの音楽文献(Bach-Digital、IMSLP)には写本イメージや各版の情報が掲載されているため、校訂作業や演奏準備には不可欠な資料になります。
聴きどころ:小曲に宿る作曲技法
BWV741–765の魅力は「短くとも密度の高い音楽」にあります。コラール旋律を如何にして新しい和声的・対位法的文脈に置くか、短時間でどうドラマを生むか――という点に注目すると良いでしょう。たとえば、単一のコラールフレーズを変奏的に配することで感情の高まりを演出する手法や、ベースラインの微妙な転回で和声の色彩を変える技巧には、バッハ的な構成感覚が垣間見えます。これらは、長大なフーガや対位法作品と同じく、動機の徹底的な発展や和声進行の精緻さに支えられています。
推薦演奏とレコメンデーション
短いコラール編曲は演奏録音も多数存在します。歴史的にはヘルムート・ヴァルヒャ、マリー=クレール・アラン、トン・クープマン(オルガン全集で知られる演奏家)らの録音が高く評価されています。録音を選ぶ際は、使用楽器(パイプオルガンの規模、チューニング、録音の空間)を確認し、教会での実演に近いものか、あるいは小型のチェンバーオルガンでの繊細な解釈かを比較するのが良いでしょう。
研究的視点:今後の課題
BWV741–765に関しては、以下のような研究課題が残っています。
- 写本史の更なる解明:どの写譜者がどの写本を作成したか、写本同士の系譜を精査する作業。
- 帰属問題の解決:音楽情報学的手法(統計的なスタイル分析やモチーフ比較)を用いた客観的評価の導入。
- 演奏実践の再現:当時のオルガンの音色や礼拝空間を想定した演奏法の復元研究。
まとめ
BWV741–765の25の短いコラール編曲群は、教会音楽としての実用性、教育的価値、そして短小ながら充実した音楽的内容という三重の魅力を持っています。同時に、写本史や帰属の不確実性は学術的な検証を促す重要な課題でもあります。演奏者は校訂版と原典写本を突き合わせ、旋律の歌わせ方、ストップ選択、装飾の扱いを慎重に決定することで、これらの小品が持つ深い音楽性を最大限に引き出すことができます。
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参考文献
- Bach-Digital(バッハ・デジタル)
- IMSLP(国際楽譜ライブラリ・プロジェクト)
- Christoph Wolff, "Johann Sebastian Bach: The Learned Musician"(Harvard University Press)
- Peter Williams, "The Organ Music of J. S. Bach"(Cambridge University Press)
- Bärenreiter(Neue Bach-Ausgabe / 校訂版出版社)
- Grove Music Online(Oxford Music Online)
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