リベルタ・ラマルケ──タンゴと黄金時代を彩った「アメリカの花嫁」

リベルタ・ラマルケは1908年11月24日にアルゼンチン・ロサリオで生まれ、2000年12月12日にメキシコシティで92歳で逝去した歌手・女優です。子役としてキャリアをスタートし、17歳でタンゴ歌手としてレコードデビュー。アルゼンチン初のトーキー映画にも出演し国民的スターとなった後、エバ・ペロンとの確執を機に1946年にメキシコへ移住。以降、約65本の映画と800曲以上の録音を残し、「La Novia de América(アメリカの花嫁)」の愛称でラテンアメリカ全域から愛され続けました。

生い立ちと家族背景

リベルタは10人兄弟の末っ子として生まれ、父はウルグアイ移民、母はスペイン移民でした。生誕時、政治犯として投獄中だった父の希望により「自由」を意味する「リベルタ」と名付けられたと伝えられています。幼少期から舞台へ立ち、その表現力が早くから注目を集めました。

初期キャリアとタンゴ歌手としての成功

7歳で子役デビューを飾り、1926年にはブエノスアイレス国立劇場の合唱団に参加。同年9月にビクター・レコードからシングルをリリースし、正式に歌手活動を開始しました。翌年、フランシスコ・カナロ楽団との共演でヒットを連発し、「ガウチョの嘆き」「マドレセルバ」などでタンゴ歌手として確固たる地位を築きました。

アルゼンチン映画界での飛躍

1929年のサイレント映画『Adiós, Argentina』でスクリーンデビュー。1932年公開の『¡Tango!』では同国初のサウンド映画に歌手として出演し、大きな話題を呼びました。以降、『El alma del bandoneón』(1935)、『Ayúdame a vivir』(1936)、『Besos brujos』(1937)など、多くのヒット作で主演を務め、演技力と歌声で観客を魅了しました。1939年には国外の映画祭で最優秀外国人女優賞を受賞するなど国際的評価も獲得しています。

エバ・ペロンとの確執とメキシコ移住

1945年頃、撮影現場でエバ・ペロンを叱責したことがきっかけでアルゼンチン映画界から事実上排斥されたと伝えられています。この逸話は議論を呼びましたが、最終的に1946年にメキシコへ移住し、新天地でのキャリアをスタートさせました。

メキシコ黄金期の活躍

移住後すぐに『Gran Casino』(1946年)で主演を務め、以降『Soledad』(1947年)、『La dama del velo』(1948年)、『Escuela de música』(1955年)など約45本の映画に出演。三度アリエル賞にノミネートされるなど、メキシコ映画の黄金期を牽引しました。キューバツアー中に「アメリカの花嫁」と称され、その愛称はラテンアメリカ全域に定着しました。

音楽活動と国際的影響

メキシコ滞在中もタンゴ録音を精力的に続け、『Triste Destino』『Yo Soy María』などのヒット曲を生み出しました。1947年にはカーネギーホール公演も成功させ、アメリカ本土でも高い評価を獲得。ラジオ、舞台、映画、テレビを横断した幅広い活動で、世代を超えて多くのファンを魅了しました。

晩年と遺産

1978年の映画『La mamá de la novia』を最後に銀幕を引退しましたが、その後もテレビドラマや舞台で活動を継続。1990年にブエノスアイレス名誉市民、1995年に「文化界功労者」に選出されるなど、多数の栄誉を受けました。2000年12月12日、肺炎により92歳で逝去し、遺灰はマイアミ湾に散骨されました。彼女が築いた映画・音楽両面の豊かな功績は、今日でもラテンアメリカ文化の象徴として語り継がれています。

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